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ショート17

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①織田信長の優秀小姓(こしょう)・森蘭丸とは

実名は森成利(なりとし)

通称で有名な蘭丸(らんまる)は、当時の史料には登場しない

乱(らん)、乱法師(らんぽうし)と書かれている

生まれは織田家家臣の森氏

13歳の時に弟2人とともに、小姓として信長に仕(つか)えはじめる

蘭丸は取次役や使者など務(つと)め活躍し、500石(ごく)の領地を拝領(はいりょう)

翌年には甲州征伐(こうしゅうせいばつ)で戦果を挙(あ)げた蘭丸の兄が、信濃(しなの)に領地を与えられた

そのため蘭丸は兄がいた金山城(かねやまじょう)の城主となり、5万石の大名となった

しかし信長の側で事務仕事をしていたため、城は代理の者に任せている

同じ年に明智光秀が謀反(むほん)を起こした本能寺の変が発生

信長に同行していた蘭丸は、弟たちとともに討ち取られてしまった

蘭丸18歳のときである

もし生きていたら、もっと有名な人物になっていただろう

 

②森蘭丸のエピソード!ウソかマコトか逸話3選

ある日信長は切った爪を捨てるよう、蘭丸に命じた

蘭丸はその爪を見て9個しかないことに気づいた

すると信長の袖(そで)から落ちて、無事10個の爪を処分したという

またある日、信長が鷹(たか)狩りに出かけた際のこと

農家で休憩しているときに大きい地震が発生

供(とも)の者が外へ逃げる中、信長は農家に残った

揺れがおさまったあと、側に控えていた蘭丸は「天下を樹(た)てようという時に、危険なことをするものではない」と地震の時は逃げるよう信長に諫言(かんげん)

また揺れてる時に言わなかったのは、地震を恐れていると思われたくなかったらしい

ある時信長は蘭丸に褒美を考えた

蘭丸は自身が欲しいものを掌(てのひら)に書き、信長は蘭丸が欲しいものを書いた

同時に見せると、2人とも近江(おうみ)坂本6万石と書いていたという

そこは蘭丸の父の旧領だが、当時は明智光秀の領地だった

盗み聞きしていた光秀は、信長に不信感が募(つの)ったそうだ

 

③寵愛?織田信長と森蘭丸は衆道関係だったのか

衆道(しゅどう)とは男色(なんしょく)のことで、武士においては主従(しゅじゅう)の信頼関係を強くしたり、出世の足がかりになったりもした

戦国時代においては、特に珍しいことではなかったのだ

生涯女性にしか興味がなかった豊臣秀吉の方が、珍しかったのかもしれない

では信長と蘭丸はどうだったのか

今のところ2人に衆道の関係はなかったと思われる

蘭丸は小姓としてとても優秀で、信長に信頼されていた人物だ

そのためなのか2人の衆道関係については有名だ

しかしそれを裏付ける史料は存在していない

また蘭丸の美少年像も江戸時代後期に登場

現在の蘭丸のイメージは後世に作られたものが多いのかもしれない

信長と蘭丸の衆道については、裏付けるような史料が発見されない限り、架空の話しということになる

 

④鬼武蔵?信長の小姓・森蘭丸の家族とは

父の森可成(よしなり)は元は土岐氏(ときし)に仕(つか)えていたが、31歳までに織田信長に仕えることになった

数々の合戦(かっせん)で織田に貢献し、城を与えられている

浅井(あざい)・朝倉(あさくら)との戦いで、敵の足止めに成功したが、討死してしまった

母の妙向尼(みょうこうに)は浄土真宗(じょうどしんしゅう)の信者だった

そのため石山合戦(いしやまかっせん)では、蘭丸と協力しながら、和睦(わぼく)に向けて奔走(ほんそう)したそうだ

また蘭丸は9人兄弟の3男だった

そのうち6人が男兄弟

兄・長可(ながよし)は鬼武蔵(おにむさし)と恐れられた暴れん坊

戦場で活躍する一方、軍規違反で信長に叱られている

弟の長隆(ながたか)、長氏(ながうじ)は蘭丸とともに信長の小姓を務めていた

6男の忠政(ただまさ)は振る舞いを信長に咎(とが)められ、実家に送り返されている

そのおかげで本能寺の変には巻き込まれず、のちに津山藩(つやまはん)初代藩主になった

忠政以外の蘭丸を含めた5人は、全員戦場で亡くなっている

 

⑤森蘭丸は明智光秀の逆心(ぎゃくしん)に気付いてた?逸話(いつわ)を紹介

織田信長が光秀を打ち叩いたとき、光秀は涙を流しながら

「取り立ててくれた恩は莫大なので、逆心は生まれませんが、あんまりです」

と言ったという

同席していた蘭丸は、後から信長に、光秀は謀反(むほん)を考えているため成敗するべきだと進言(しんげん)

光秀の言葉自体が、逆心があるからだと考えたらしい

また朝食の際、光秀は口に入れるご飯も噛まず、箸を落としても気づかず、それを後から驚いている様子

ずっと考え事をしているようで、これは天下に関わる一大事を企(くわだ)てていると、蘭丸は思ったそうだ

光秀が恨みを持つようなことが日頃あるので、油断しないようにとし、蘭丸は光秀を斬ることを希望した

しかし信長はこの話しを気に留めなかったのだ

この逸話のようなことがあったとして、信長が蘭丸の意見を受け入れていたら、本能寺の変はなかったのだろうか

 

⑥武田軍の挟み打ち?キツツキ戦法とは

上杉謙信と武田信玄による第4次川中島の戦い

この戦いで武田軍が用いた作戦が、俗(ぞく)に言う啄木鳥戦法だ

上杉軍は妻女山(さいじょさん)に布陣していた

これを攻めるため、武田軍は山本勘助(かんすけ)が献策(けんさく)した作戦をとる

まず軍勢を2手に分け、別働隊の1万2千が、上杉軍に夜襲(やしゅう)をかける

そして撤退し山を降りてきた上杉軍を、信玄率(ひき)いる本隊が迎撃(げいげき)

この挟み打ちが啄木鳥戦法と呼ばれている

しかし8千から1万3千の兵がいる要塞化(ようさいか)された妻女山に襲撃(しゅうげき)するには、1万2千の軍勢では足りないそうだ

城攻めに置き換えると、兵は数倍を要するという

なので武田の作戦を攻城戦(こうじょうせん)で見ると、別働隊は足止めをするため上杉軍を包囲

そのうちに武田本隊は、上杉の兵糧補給(ひょうろうほきゅう)部隊を潰そうとしたのではないか、と戦国史研究家の乃至政彦(ないしまさひこ)さんは考えられるという

兵糧を絶たれては、負ける確率がぐんと高くなる

いずれにせよ謙信は信玄の作戦を見抜き、夜のうちに下山している

 

⑦装填(そうてん)が大変!火縄銃の使い方

まず銃口(じゅうこう)から火薬と弾丸を詰め込む

もし火薬と弾丸がセットになった早合(はやごう)があると時短(じたん)になった

火縄銃には銃身(じゅうしん)の下に、㮶杖(かるか)という細い棒が収められている

これで火薬を押し込めるのだ

しっかり奥まで詰めないと、射撃が弱くなるという

次に銃身内部の火皿(ひざら)に、口薬(くちぐすり)という細かい火薬を盛って、火蓋(ひぶた)を閉じる

そして腕につけていた火縄を火挟(ひばさみ)にセットしたら、射撃可能となるのだ

次の射撃は、再び火薬を詰めるところから始まる

この作業はだいたい30秒かかるそうだ

また1回撃つごとに銃の内側に残りかすが蓄積されていく

火薬が残りかすに絡め取られ、押し込める量が減ったり、口径(こうけい)が狭くなったりで弾丸が不発になることも

戦場で洗うことはできないので、㮶杖で拭う程度の処置

ただし㮶杖は折れやすく、予備を用意しておく場合もあったそうだ

また時折火縄の灰を取り除かないと、火皿の火薬にうまく点火できない

連続射撃はなかなか難しそうだ

 

⑧壮絶な最後!細川ガラシャの生涯とは

明智光秀の娘で、本名は玉(たま)、または玉子(たまこ)

織田信長の命(めい)で、15歳の時に細川忠興(ほそかわただおき)に嫁いだ

4年後、父である光秀が本能寺で謀反(むほん)を起こす

忠興は父に玉との離縁を命じられた

実家に戻されると思われたが、忠興は玉を山奥に幽閉(ゆうへい)

たびたび玉の元に通ったという

2年後に羽柴秀吉の許しを得て、玉は監視付きで細川屋敷に帰ってきた

また忠興からカトリックの話しを聞き、興味を持つように

忠興が九州征伐(きゅうしゅうせいばつ)に行っている間に、玉はキリスト教の洗礼(せんれい)を受け、ガラシャの名をもらっていた

だがこの時バテレン追放令が出たため、帰還(きかん)した忠興は激怒して玉に辛(つら)く当たるようになったという

関ヶ原の戦いの少し前、忠興は徳川の命(めい)で上杉征伐(せいばつ)へ

忠興は妻の名誉に危険が及んだら、妻を殺し切腹するよう命じた

この隙に石田三成は玉を人質にするべく、屋敷を包囲

玉は忠興の言い付けを守り、家臣に自分を殺すよう命じ、遺体が残らないように屋敷を爆薬で放火したという

 

⑨笹の才蔵!最強武将、可児吉長(かによしなが)とは

通称である才蔵で有名

蟹薬師(かにやくし)と呼ばれる願興寺(がんこうじ)で幼少期を過ごした

寺の伝承では、滅ぼされた朝倉氏の側室が逃げ込んできたという

側室は身籠(みごも)っており、産まれた子が才蔵らしい

才蔵は森長可(ながよし)、前田利家(としいえ)、羽柴秀次(ひでつぐ)など、様々な武将に仕えたそうだ

秀次と対立して以降は浪人(ろうにん)となったが、福島正則(ふくしままさのり)に700石で召し抱えられた

関ヶ原の合戦にも参戦し、17の首級(しゅきゅう)をあげたという逸話(いつわ)もある

戦では抱えきれないほど、敵を討ち取ることが多かった才蔵

なので笹の指物(さしもの)をして、討ち取った首には目印として笹を含ませた

そのため笹の才蔵と称されるようになったという

また才蔵は愛宕権現(あたごごんげん)を信仰(しんこう)してるので、「自分は愛宕権現の縁日に死ぬだろう」と日頃言っていたそうだ

6月24日の愛宕権現の縁日、身を清め甲冑(かっちゅう)を着用し、刀を持って床机(しょうぎ)に腰掛けたまま息絶えたという

死に様もかっこいい

 

⑩長篠城を守った立役者!鳥居強右衛門(とりいすねえもん)とは

奥三河(おくみかわ)の国衆(くにしゅう)である奥平(おくだいら)氏の家臣だったという

強右衛門は長篠(ながしの)の戦いで活躍

奥平氏は徳川家康に長篠城を任されていた

天正3年、長篠城は武田軍に包囲(ほうい)され、猛攻を受けた

防衛を続けた長篠城だが、落城(らくじょう)寸前の状況

家康は織田に援軍を要請(ようせい)していたが、長篠城は連絡が取れず、不安に包まれていた

そこで城から使者を送り、家康に援軍要請を試(こころ)みることに

武田軍が包囲する中、この難しい役を志願したのが強右衛門だ

家康がいる岡崎城(おかざきじょう)に強右衛門が着いた時、信長も到着していた

強右衛門は城へ援軍を知らせるべく引き返した道中で、武田に捕えられてしまった

武田は強右衛門に対し、命を助ける代わりに、援軍は来ないから投降するべきと言うよう命じた

了承して城へ近づいた時、強右衛門は「もう少しで援軍が来る」と叫んだのだ

これによって磔(はりつけ)にされたが、城兵(じょうへい)は士気(しき)を盛り上げ、援軍が来るまで持ち堪(こた)えることができた

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モモ
みなさんこんにちは! はじめまして^^ それからいつもブログを読んでくださって感謝してます❤︎ 1993年生まれの、モモと申します^^ 2020年までは事務職にて正社員で働いていました。 現在はパートをしながら主婦をしています。 このブログを始めたきっかけは日本が好きで、少しでも貢献したい!と思ったからです。 日本の歴史や、日本の良いもの(日本製品・メイドインジャパン)を発信して、皆さんとシェアしたい!大好きな日本を盛り上げたい!という大きな野望を抱えています。(笑) そして頑張るなら好きなことをしたいという気持ちがありました。 私は神社仏閣めぐりが大好きで、今年は神社について勉強して、神社検定を受ける予定です。 戦国武将も好きで、もっとたくさん知識を深めたいと思っています。 日々勉強しながら楽しんで更新していきますので、よろしくお願い致します!

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