①織田信長の優秀小姓(こしょう)・森蘭丸とは
実名は森成利(なりとし)
通称で有名な蘭丸(らんまる)は、当時の史料には登場しない
乱(らん)、乱法師(らんぽうし)と書かれている
生まれは織田家家臣の森氏
13歳の時に弟2人とともに、小姓として信長に仕(つか)えはじめる
蘭丸は取次役や使者など務(つと)め活躍し、500石(ごく)の領地を拝領(はいりょう)
翌年には甲州征伐(こうしゅうせいばつ)で戦果を挙(あ)げた蘭丸の兄が、信濃(しなの)に領地を与えられた
そのため蘭丸は兄がいた金山城(かねやまじょう)の城主となり、5万石の大名となった
しかし信長の側で事務仕事をしていたため、城は代理の者に任せている
同じ年に明智光秀が謀反(むほん)を起こした本能寺の変が発生
信長に同行していた蘭丸は、弟たちとともに討ち取られてしまった
蘭丸18歳のときである
もし生きていたら、もっと有名な人物になっていただろう
②森蘭丸のエピソード!ウソかマコトか逸話3選
ある日信長は切った爪を捨てるよう、蘭丸に命じた
蘭丸はその爪を見て9個しかないことに気づいた
すると信長の袖(そで)から落ちて、無事10個の爪を処分したという
またある日、信長が鷹(たか)狩りに出かけた際のこと
農家で休憩しているときに大きい地震が発生
供(とも)の者が外へ逃げる中、信長は農家に残った
揺れがおさまったあと、側に控えていた蘭丸は「天下を樹(た)てようという時に、危険なことをするものではない」と地震の時は逃げるよう信長に諫言(かんげん)
また揺れてる時に言わなかったのは、地震を恐れていると思われたくなかったらしい
ある時信長は蘭丸に褒美を考えた
蘭丸は自身が欲しいものを掌(てのひら)に書き、信長は蘭丸が欲しいものを書いた
同時に見せると、2人とも近江(おうみ)坂本6万石と書いていたという
そこは蘭丸の父の旧領だが、当時は明智光秀の領地だった
盗み聞きしていた光秀は、信長に不信感が募(つの)ったそうだ
③寵愛?織田信長と森蘭丸は衆道関係だったのか
衆道(しゅどう)とは男色(なんしょく)のことで、武士においては主従(しゅじゅう)の信頼関係を強くしたり、出世の足がかりになったりもした
戦国時代においては、特に珍しいことではなかったのだ
生涯女性にしか興味がなかった豊臣秀吉の方が、珍しかったのかもしれない
では信長と蘭丸はどうだったのか
今のところ2人に衆道の関係はなかったと思われる
蘭丸は小姓としてとても優秀で、信長に信頼されていた人物だ
そのためなのか2人の衆道関係については有名だ
しかしそれを裏付ける史料は存在していない
また蘭丸の美少年像も江戸時代後期に登場
現在の蘭丸のイメージは後世に作られたものが多いのかもしれない
信長と蘭丸の衆道については、裏付けるような史料が発見されない限り、架空の話しということになる
④鬼武蔵?信長の小姓・森蘭丸の家族とは
父の森可成(よしなり)は元は土岐氏(ときし)に仕(つか)えていたが、31歳までに織田信長に仕えることになった
数々の合戦(かっせん)で織田に貢献し、城を与えられている
浅井(あざい)・朝倉(あさくら)との戦いで、敵の足止めに成功したが、討死してしまった
母の妙向尼(みょうこうに)は浄土真宗(じょうどしんしゅう)の信者だった
そのため石山合戦(いしやまかっせん)では、蘭丸と協力しながら、和睦(わぼく)に向けて奔走(ほんそう)したそうだ
また蘭丸は9人兄弟の3男だった
そのうち6人が男兄弟
兄・長可(ながよし)は鬼武蔵(おにむさし)と恐れられた暴れん坊
戦場で活躍する一方、軍規違反で信長に叱られている
弟の長隆(ながたか)、長氏(ながうじ)は蘭丸とともに信長の小姓を務めていた
6男の忠政(ただまさ)は振る舞いを信長に咎(とが)められ、実家に送り返されている
そのおかげで本能寺の変には巻き込まれず、のちに津山藩(つやまはん)初代藩主になった
忠政以外の蘭丸を含めた5人は、全員戦場で亡くなっている
⑤森蘭丸は明智光秀の逆心(ぎゃくしん)に気付いてた?逸話(いつわ)を紹介
織田信長が光秀を打ち叩いたとき、光秀は涙を流しながら
「取り立ててくれた恩は莫大なので、逆心は生まれませんが、あんまりです」
と言ったという
同席していた蘭丸は、後から信長に、光秀は謀反(むほん)を考えているため成敗するべきだと進言(しんげん)
光秀の言葉自体が、逆心があるからだと考えたらしい
また朝食の際、光秀は口に入れるご飯も噛まず、箸を落としても気づかず、それを後から驚いている様子
ずっと考え事をしているようで、これは天下に関わる一大事を企(くわだ)てていると、蘭丸は思ったそうだ
光秀が恨みを持つようなことが日頃あるので、油断しないようにとし、蘭丸は光秀を斬ることを希望した
しかし信長はこの話しを気に留めなかったのだ
この逸話のようなことがあったとして、信長が蘭丸の意見を受け入れていたら、本能寺の変はなかったのだろうか
⑥武田軍の挟み打ち?キツツキ戦法とは
上杉謙信と武田信玄による第4次川中島の戦い
この戦いで武田軍が用いた作戦が、俗(ぞく)に言う啄木鳥戦法だ
上杉軍は妻女山(さいじょさん)に布陣していた
これを攻めるため、武田軍は山本勘助(かんすけ)が献策(けんさく)した作戦をとる
まず軍勢を2手に分け、別働隊の1万2千が、上杉軍に夜襲(やしゅう)をかける
そして撤退し山を降りてきた上杉軍を、信玄率(ひき)いる本隊が迎撃(げいげき)
この挟み打ちが啄木鳥戦法と呼ばれている
しかし8千から1万3千の兵がいる要塞化(ようさいか)された妻女山に襲撃(しゅうげき)するには、1万2千の軍勢では足りないそうだ
城攻めに置き換えると、兵は数倍を要するという
なので武田の作戦を攻城戦(こうじょうせん)で見ると、別働隊は足止めをするため上杉軍を包囲
そのうちに武田本隊は、上杉の兵糧補給(ひょうろうほきゅう)部隊を潰そうとしたのではないか、と戦国史研究家の乃至政彦(ないしまさひこ)さんは考えられるという
兵糧を絶たれては、負ける確率がぐんと高くなる
いずれにせよ謙信は信玄の作戦を見抜き、夜のうちに下山している
⑦装填(そうてん)が大変!火縄銃の使い方
まず銃口(じゅうこう)から火薬と弾丸を詰め込む
もし火薬と弾丸がセットになった早合(はやごう)があると時短(じたん)になった
火縄銃には銃身(じゅうしん)の下に、㮶杖(かるか)という細い棒が収められている
これで火薬を押し込めるのだ
しっかり奥まで詰めないと、射撃が弱くなるという
次に銃身内部の火皿(ひざら)に、口薬(くちぐすり)という細かい火薬を盛って、火蓋(ひぶた)を閉じる
そして腕につけていた火縄を火挟(ひばさみ)にセットしたら、射撃可能となるのだ
次の射撃は、再び火薬を詰めるところから始まる
この作業はだいたい30秒かかるそうだ
また1回撃つごとに銃の内側に残りかすが蓄積されていく
火薬が残りかすに絡め取られ、押し込める量が減ったり、口径(こうけい)が狭くなったりで弾丸が不発になることも
戦場で洗うことはできないので、㮶杖で拭う程度の処置
ただし㮶杖は折れやすく、予備を用意しておく場合もあったそうだ
また時折火縄の灰を取り除かないと、火皿の火薬にうまく点火できない
連続射撃はなかなか難しそうだ
⑧壮絶な最後!細川ガラシャの生涯とは
明智光秀の娘で、本名は玉(たま)、または玉子(たまこ)
織田信長の命(めい)で、15歳の時に細川忠興(ほそかわただおき)に嫁いだ
4年後、父である光秀が本能寺で謀反(むほん)を起こす
忠興は父に玉との離縁を命じられた
実家に戻されると思われたが、忠興は玉を山奥に幽閉(ゆうへい)
たびたび玉の元に通ったという
2年後に羽柴秀吉の許しを得て、玉は監視付きで細川屋敷に帰ってきた
また忠興からカトリックの話しを聞き、興味を持つように
忠興が九州征伐(きゅうしゅうせいばつ)に行っている間に、玉はキリスト教の洗礼(せんれい)を受け、ガラシャの名をもらっていた
だがこの時バテレン追放令が出たため、帰還(きかん)した忠興は激怒して玉に辛(つら)く当たるようになったという
関ヶ原の戦いの少し前、忠興は徳川の命(めい)で上杉征伐(せいばつ)へ
忠興は妻の名誉に危険が及んだら、妻を殺し切腹するよう命じた
この隙に石田三成は玉を人質にするべく、屋敷を包囲
玉は忠興の言い付けを守り、家臣に自分を殺すよう命じ、遺体が残らないように屋敷を爆薬で放火したという
⑨笹の才蔵!最強武将、可児吉長(かによしなが)とは
通称である才蔵で有名
蟹薬師(かにやくし)と呼ばれる願興寺(がんこうじ)で幼少期を過ごした
寺の伝承では、滅ぼされた朝倉氏の側室が逃げ込んできたという
側室は身籠(みごも)っており、産まれた子が才蔵らしい
才蔵は森長可(ながよし)、前田利家(としいえ)、羽柴秀次(ひでつぐ)など、様々な武将に仕えたそうだ
秀次と対立して以降は浪人(ろうにん)となったが、福島正則(ふくしままさのり)に700石で召し抱えられた
関ヶ原の合戦にも参戦し、17の首級(しゅきゅう)をあげたという逸話(いつわ)もある
戦では抱えきれないほど、敵を討ち取ることが多かった才蔵
なので笹の指物(さしもの)をして、討ち取った首には目印として笹を含ませた
そのため笹の才蔵と称されるようになったという
また才蔵は愛宕権現(あたごごんげん)を信仰(しんこう)してるので、「自分は愛宕権現の縁日に死ぬだろう」と日頃言っていたそうだ
6月24日の愛宕権現の縁日、身を清め甲冑(かっちゅう)を着用し、刀を持って床机(しょうぎ)に腰掛けたまま息絶えたという
死に様もかっこいい
⑩長篠城を守った立役者!鳥居強右衛門(とりいすねえもん)とは
奥三河(おくみかわ)の国衆(くにしゅう)である奥平(おくだいら)氏の家臣だったという
強右衛門は長篠(ながしの)の戦いで活躍
奥平氏は徳川家康に長篠城を任されていた
天正3年、長篠城は武田軍に包囲(ほうい)され、猛攻を受けた
防衛を続けた長篠城だが、落城(らくじょう)寸前の状況
家康は織田に援軍を要請(ようせい)していたが、長篠城は連絡が取れず、不安に包まれていた
そこで城から使者を送り、家康に援軍要請を試(こころ)みることに
武田軍が包囲する中、この難しい役を志願したのが強右衛門だ
家康がいる岡崎城(おかざきじょう)に強右衛門が着いた時、信長も到着していた
強右衛門は城へ援軍を知らせるべく引き返した道中で、武田に捕えられてしまった
武田は強右衛門に対し、命を助ける代わりに、援軍は来ないから投降するべきと言うよう命じた
了承して城へ近づいた時、強右衛門は「もう少しで援軍が来る」と叫んだのだ
これによって磔(はりつけ)にされたが、城兵(じょうへい)は士気(しき)を盛り上げ、援軍が来るまで持ち堪(こた)えることができた