\今回の記事はこんな方におすすめ/
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生麦事件ってなに?
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薩英戦争のきっかけは?
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生麦事件はどっちが悪い?
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他国の評価は?
幕末や新選組について勉強していると、よくサラッと出てくる「生麦事件」ですが、一体どんな事件だったのでしょうか。
分かりやすく解説していきます!
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生麦事件とは
文久2年8月21日、生麦村(神奈川県横浜市鶴見区)の近くで起きた出来事。
島津久光一行の薩摩藩士による、イギリス人殺傷事件です。
島津久光が勅使とともに、江戸幕府に改革を促したあと、行列をつくって帰っている道中。
その正面から馬に乗ったイギリス人4名が、行列に向かって進んできていました。
イギリス人4名
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リチャードソン(イギリス商人)
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クラーク(ハーバード商会)
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ボラデール夫人(リチャ友)
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マーシャル(横浜在留商人)
薩摩藩士たちは言葉が通じないながらも、何度も身振り手振りで説明します。
やっけた、このままでは行列が邪魔されっど…。
下馬せ!
どうにも通じないうえに端に寄った外国人たちが行列と逆行して進んで来ます。
そして1人が手綱を引いたとき、外国人が乗った馬が、久光がいる籠に向きました。
そのため危険と判断した奈良原喜八郎が、その1人を斬ってしまいます。
斬った理由については
じゃっちそもそも主君に被害がないようお努めすっのが御供の役目でごわす。
と後に奈良原は言っています。(武士かっけぇ…)
上記には喜八郎としましたが、実は斬ったのは兄・奈良原喜左衛門だと広く伝わっています。
ですが奈良原の子孫曰く、本当は弟の喜八郎の方が斬ったということなので、喜八郎を採用しました。
よけろって言ってるのかな?
あれ、なんか違う?
端に寄って進めばいいかな。
そして手綱を引くと、1人が斬りかかってきました。
そのままリチャードソンが斬られてしまい、現場はパニックに。
実は出かける前から、4名はこの日に偉い人の行列があることは知っていたという話もあります。
事前に忠告を受けていたにも関わらず、出かけてしまったようです。
生麦事件ではイギリス人1名(リチャードソン)が亡くなり、2名が傷を負い、1名が無傷でした。
薩英戦争に発展した理由
イギリス人が亡くなったということで、イギリスは日本に対して賠償金を求めます。
薩摩が幕政改革を迫った直後だったため、幕府は「薩摩が外国人とわざと騒ぎを起こした」と捉えてしまいます。
最終的に幕府はイギリスの要求通りに、賠償金10万ポンド(約90億円くらい)を支払いました。
また治外法権によって、そのような外国人がいても、日本の法律では処罰できないルール。
薩摩が勝手に外国人を裁いてしまったので、条約を考えると幕府としては賠償金を払うのは仕方ないですよね。(それにしても高すぎる要求だけど…)
しかしだからこそ好き勝手する外国人もいたのでしょう。
ただ薩英戦争ののち、薩摩とイギリスは友好関係を築きます。
少年マンガのような展開(笑)
どっちが悪い?他国の評価は…
生麦事件においては、薩摩とイギリスどちらが悪かったのでしょうか?
「郷に入っては郷に従え」という言葉がありますが、私はその通りだと思います。
薩摩は「武士として然るべき行動をとったまで」という感覚でしょう。
ましてや当時は「攘夷」が最高潮の時代。
この攘夷の時代にわざわざ日本に来るならば、外国人が日本の文化について勉強する必要があると思うのです。
特に無礼な態度は、武士の矜持にも関わること。
これに関しては日本人も外国人も関係ありませんからね。
では他国の方はどのように見ていたのでしょうか。
※原文より言葉を崩したり省略しています。
アメリカの意見(ニューヨークタイムズ)
日本での事件は、非があるのはリチャードソンだ。
貴族に対してこのような無礼な行動は、日本人ですら許されないのだから。
ユージン・ヴァン・リード(アメリカ商人)
実はユージン・ヴァン・リードは生麦事件が起こる前、島津久光一行の行列に出くわしています。
ユージンは馬から下りて道をあけ、帽子を脱いで頭を下げ礼をしました。
もちろん島津一行は礼を表した彼には、何もしていません。
リチャードソンの叔父
シマヅたちは間違っていないと思う。
政府(イギリス)は日本に何かするべきではなかった。
フレデリック・ブルース(イギリス公使)
もしリチャードソン氏が彼らに敬意を表していないなら
分別ある同行の者が言ったように、引き返すとか避けるとか、なぜしなかったのだろうか。
彼は騎士道的な本能によっていささかも抑制されることのない、プロ・ボクサーにみられるような蛮勇(乱暴な大胆さ)の持ち主である。
フレデリック曰く、苦力(クーリー)と呼ばれるアジア系の労働者に対し、リチャードソンは罪がなくとも残虐な暴行をしていたそうです。
仮にこの話しが本当ならば、リチャードソンはアジア人を見下すような心があったのではないか、と推測してしまいます。
それが態度に現れていたとしたら、武士は許せないでしょうね。
まとめ
\今回のまとめ/
生麦事件とは
文久2年8月21日、生麦村(神奈川県横浜市鶴見区)の近くで起きた出来事。
島津久光一行の薩摩藩士による、イギリス人殺傷事件です。
ただこの事件は、攘夷活動のテロのような殺人事件ではありません!
当時の価値観で考えると文化の違いによって生じた事件。
また当時の攘夷論争で治安が悪化していた情勢の中、治外法権を盾にしていた一部の外国人の行動。
それらを考えると、起こるべくして起こった事件だったのではないでしょうか。
また意外にも他国の方々も、日本を擁護する声が多かったですね。
本日の教訓「郷に入っては郷に従え」でした!