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今回は上杉家が二分化されることになった、上杉家当主の座を巡る、跡目争いについて触れていこうと思います。
「御館(おたて)の乱」一度は聞いたことがある方が、多いのではないでしょうか。
ちなみに御館とは、上杉謙信が前関東管領の上杉憲政(うえすぎ のりまさ)の居館として建て、自身も外交の際に使用した館です。
さて「御館の乱」と聞くと、負けた上杉景虎が下克上し争いを起こしたと、イメージしてしまいますよね。
ですが反乱を巻き起こしたのは景虎ではありません。
歴史とは勝者の物語であり、勝った者の都合により、消されたり書き換えられたりします。
善悪ではなく、勝者により歴史は作られるのだと思います。
またこの御館の乱も、今となってはそんな歴史の一幕なので、負けた側の景虎に関する情報がとても少ないのが残念ですね。
ではなぜこの争いに発展したのか、その後の上杉家はどうなったのか?
この御館の乱は、代々のお家間の根深い争いが原因とも思われます。
一つ一つ繋ぎ合わせながら見ていきましょう!
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上杉謙信お家事情のおさらい
御館の乱はお家事情がたくさん絡んできますので、お家についておさらいしましょう。
越後長尾氏は三家に分かれており「上田長尾氏」「古志長尾氏」「府中(三条)長尾氏」の三つがあります。
上杉謙信公は越後守護代(←役職)だった「府中長尾氏」の出身。
越後は内乱が多く、謙信公の悩みのタネでもありましたね。
謙信の父・為景(ためかげ)の代から「上田長尾氏」とは険悪でした。
そのため和睦の証として謙信の姉・仙洞院(せんとういん/仙桃院・綾御前とも)が上田長尾氏の政景(まさかげ)に嫁ぎます。
後に政景と仙洞院は、二男二女を授かりますが、その一人が景勝(顕景)
ちなみに仙洞院の母は「上条上杉氏」の出身。
謙信公とは腹違いなのですね!
越後守護代・長尾為景のあとに家督を継いだのは、謙信の兄・晴景(はるかげ)
晴景は病弱だったため、思うように動けず内乱を治めることが難しく、越後の豪族に侮られていました。
ついには謀反を起こされ、これを鎮圧したのが元服したばかりの謙信(当時:景虎)でした。
鎮圧しても次々起こる内乱を、たびたび兄・晴景の代わりに若き謙信が治めていきます。
そんな中で周囲がざわめきだしました。
晴景ではなく、若き謙信公を越後守護代にしようとする動きが始まるのです。
その時の派閥がこちら。
景虎派 (謙信) |
古志長尾氏(←謙信の母の実家)本庄実乃、直江実綱など |
晴景派 | 上田長尾氏(←景勝の父:政景)黒川清実など |
その結果、兄・晴景は家督を謙信に譲り、自身は隠居することになりました。
謙信公はここで事実上、越後の国主となったわけです。
晴景を推した上田長尾氏の立場が弱くなり、景虎(謙信)を推した古志長尾氏は力が増しました。
おもしろくない上田長尾氏の当主・政景は謙信に対し、反乱を起こしたが撃退され降伏。
姉・仙洞院の夫だったため、謙信公は政景を殺しませんでした。
後に謙信公は関東管領の上杉憲政の養子になり、山内上杉家の家督を譲られ、関東管領も引き継ぎます。
景勝の父・政景が当主の上田長尾氏は、晴景の味方につき、さらに古志長尾氏との対立関係が深まった。
すでに因縁のニオイがプンプンしますね。
景虎と景勝の生い立ち
景虎と景勝は二人とも、実子のいない上杉謙信の養子として有名ですよね。
謙信には他にも養子がおり、その中の畠山義春は上条上杉家を、山浦国清は山浦上杉家を継いでいました。
なので他の養子は跡目争いには発展しなかったのですね。
では景虎と景勝、両者はどのように謙信の養子になったのか、その生い立ちを少し見ていきます。
知ってる方は飛ばしちゃって大丈夫です!
上杉景虎
1554年に相模(さがみ)の北条氏康の七男として生まれます。
元服後の名前は北条三郎。(七男なのにね!)
武田・北条・今川で、甲相駿(こうそうすん)三国同盟を組んでいた時には、武田で人質として過ごしていたこともあったといわれています。
三国同盟が破綻し、北条へ帰還したあと、三郎は北条幻庵の娘と結婚しました。
しかし同年に北条は上杉へ和睦を持ちかけ、「越相同盟」を組みます。
そこで三郎は結婚したばかりでしたが離縁させられ、上杉に人質として行くことに。
夫婦仲も良かったといわれていますが、数ヶ月の結婚生活でした。
上杉謙信に気に入られた三郎は、謙信の「養子」として迎え入れられました。
さらに景虎という名前をもらい「上杉三郎景虎」になりました。
同年に景勝の姉・清円院と結婚、翌年には嫡男の道満丸が誕生します。
しかし同じ年に景虎の実父・北条氏康が逝去。
家督を継いでいた兄・氏政は父の遺言通りに、再び武田と同盟を結び「越相同盟」を破棄。
謙信は景虎を見捨てたと北条に激怒し景虎を返さず、一方景虎も越後に残る決意を固めました。
上杉景勝
1556年に「上田長尾氏」の長尾政景と仙洞院の間に生まれました。
上杉謙信の甥にあたり、血が繋がっています。
1564年に景勝の父・政景が野尻池で溺死。
酒に酔い、池に落ちて溺れたといわれています。
しかし再び謙信に謀反を企てたから、謙信家臣の宇佐美定満に暗殺された説もあり。
この出来事をきっかけに、仙洞院たちは春日山城へ引っ越し、景勝は謙信の養子になります。
このとき仙洞院は、夫が弟に殺されたのかもしれないと疑ったり考えたりしたのでしょうか。
謙信と仙洞院は特に仲が悪いという話しはないので、戦国の女性はそれなりに覚悟もあったのかもしれませんね。
しかしまだ子供だった景勝はどのように思っていたのでしょうか。
ちなみに春日山城引っ越し後に、直江兼続(当時:与六)は、景勝の側に仕えだしたといわれています。
謙信は景勝に手紙で読み書きを教えるなど、色々と気にかけていたようです。
1575年には上杉姓とともに「景勝」の名前をもらい、顕景から景勝に改名しました。
謙信はどっちに継がせたかった?
上杉謙信は跡継ぎを決めていなかったといわれていますが、景勝と景虎のどちらにしようと思っていたのでしょうか。
真相は上杉謙信のみぞ知るところではありますが、これには様々な説があります。
其の一:遺言説
広く知られる有名なお話しです。
直江景綱の妻が、死の間際の謙信に「景勝が後継者ですか」と尋ねたところ、頷いたというお話。
謙信は倒れてから、意識が戻らなかったといわれていますので、これは景勝サイドの作り話の可能性が高いです。
辞世の句についても、前もって作っておいたり、本人の死後に家臣が作ることもあったので、謙信もそのどちらかでしょうね。
其の二:道満丸説
後見人を景勝として、景虎の息子・道満丸が成長したら、道満丸に家督を継がせようとしていた説。
仙洞院の孫にあたるので、謙信の血筋も入っていますし、無難な感じがします。
父が北条出身の景虎なので、北条との関係も改善されそうですよね。
そのため道満丸の力量次第ではありますが、関東を統一できる可能性もあったもしれませんね。
其の三:両方説
景勝と景虎の両方に、役割を振り分けて相続させようとしていた説。
関東管領…景虎
越後国主…景勝
関東管領に関しては、謙信公の代ではあまり機能していない役職だったそうです。
なので形だけでも景虎に何か残してあげたいという気持ちがあっても不思議ではないですよね。
景虎と景勝が二人で協力しながら越後を守り、関東の秩序を築いていって欲しいという考えだったのでしょうか。
また北条出身ということもあり「上杉の景虎」は、北条との連携役も務めることができそうです。
二人が手を取り合っていたら、上杉家だけではなく、戦国の世の未来も大きく違っていたことでしょうね!
其の四:景勝説
状況的判断による説です。
- 上杉謙信の甥であり、血が繋がっていること。
- 長尾顕景から、上杉姓をもらい、上杉景勝に改名されていること。
- 上杉謙信の官位「弾正少弼(だんじょうしょうひつ)」を譲られていること。
※しかし官位譲渡に関しては謙信の死後のことだともいわれています。
- 上杉家軍役帳で景勝は「御中城様」の称号で最上位に名前があること。
其の五:景虎説
こちらも状況的な説で、また景勝の説を逆に読むことが多いです。
- 軍役帳に名前がなく、軍役を課されていなかったこと。
軍役があるということは、あくまで家臣という扱いなので、ないということは君主を意味しているという考え方。
※ちょうど景虎の名があった部分のリストが消失しているだけかもしれませんが。
- 上杉三郎景虎と名乗らせ、謙信の初名「景虎」を与えていること。
代々上杉家は、家督を継ぐものは謙信の父・為景や兄・晴景のように、下に景がつきます。
景虎だった謙信は当初、家督を継ぐ予定はなかったので分かりますよね。
では景勝はどうでしょうか。
上田長尾氏の跡取りは、政景の死後、顕景(景勝)になっています。
下に景ついてますね!
しかし謙信公は上杉姓を与えてはいるものの、わざわざ「顕景」から「景勝」と改名させました。
このため自分の跡継ぎとは考えていなかったと思われるということです。
そして前関東管領の上杉憲政や、居多(こた)神社の当時の宮司も、御館の乱では景虎に味方しています。
景虎もまた上杉憲政の居城・御館に逃げていること。
これを考えると関東管領に関しては、やはり謙信の生前に信頼する関係者と、何らかのやりとりがあったのでは?と思います。
景勝説も景虎説も曖昧ではありますが、御館の乱に勝利した景勝が、“都合の悪いもの”を処分した可能性は十分ありますよね。
ということは…?
…なんちゃって(笑)
御館の乱
天正(てんしょう)6年3月13日の春日山城にて、上杉謙信公が逝去されました。
3月14日:景虎派の柿崎晴家(柿崎景家の息子)が暗殺されたといわれています。
このときまだ争いは起こっておらず、遺言もないとされているのに、暗殺されるのは疑問を感じますね。
何か口封じしなければならない都合があったのでしょうか。
3月15日:景勝は「遺言通りに参った」と言い、春日山城の本丸を占拠します。
遺言とは遺言説でお話した、死の間際の謙信公が頷いた、ということを言っているのでしょうね。
この一連の流れと行動の速さは、若かりし与六(直江兼続)の謀略がすでに始まっていたのでは?と思わされます。
景勝が本丸を占拠したことにより、約三万両の黄金と、大量の武器を掌握します。
景勝は3月中に周辺大名に、家督を継いだ報告の書状も送っています。
このとき景虎は特に何かした、ということは残っていないので、「越後国主」になるのは景勝として認識していたのでしょう。
御館の乱分岐点:家臣二分化
4〜5月:会津の大名・蘆名盛氏(あしなもりうじ)が越後侵攻を企てました。
これにいち早く気づいたのは謙信家臣の、三条城主・神余親綱(かまなり ちかつな)でした。
神余はこれにすぐ対応するが、景勝に報告しなかったために「そんな訳ないだろう、勝手なことをするな!」と景勝に叱責されます。
謙信公のときからの家臣なので、信頼されず神余は不満を抱きました。
前関東管領の上杉憲政たちが、景勝と神余の仲裁をするも、景勝は聞く耳持たず…。
上杉憲政はじめとする家臣は「なんと高圧的で頑固なんだ!」となりました。
またこの件で景勝と景虎も言い争ったといわれています。
結局蘆名は越後に挙兵してきましたので、神余の読みはあっていた訳です。(しかし報連相って大事ですネ…)
5月1日:神余は景勝から離れていきました。
5月5日:景勝は景虎の住む三の丸を攻めました。
5月13日:景虎は妻子を連れて御館へ逃げます。
実はこのとき、景勝の母・仙洞院も景虎たちと一緒に御館へ行っていたといわれています。
娘と孫が心配だったのでしょうか。
そして神余や上杉憲政たちは、景勝に対し挙兵するのですが、景勝に対抗できる主君として景虎を担ぎます。
景勝が家督を継いで「上田長尾氏」の力が増すのを良しとしない、「古志長尾氏」も景虎を担ぎ、景虎は推し出される形になりました。
この一連の流れから、妻子のためにも景虎は決意を固めたことでしょう。
こうして二つの派閥を中心に乱が始まりました。
〜御館の乱:初期の派閥〜
景勝派 | 景虎派 |
上田長尾氏 | 古志長尾氏 |
樋口 与六 (直江 兼続) |
(前関東管領) 上杉 憲政 |
直江 信綱 | 柿崎晴家 |
斉藤 朝信 | 北条 氏政 |
河田 長親 | 武田 勝頼 |
新発田 長敦 | 伊達 輝宗 |
色部 長実 | 上杉 景信 |
本庄 繁長 | 本庄 秀綱 |
(上条上杉) 畠山 義春 |
山本寺 定長 |
(山浦上杉) 山浦 国清 |
神余 親綱 |
甘粕 景持 | 蘆名 盛氏 |
北条 高広 | |
堀江 宗親 | |
花ヶ前(父子) | |
• • • |
• • • |
このように最初は武田や伊達といった有力大名も景虎側にいたので、勢力的には有利ですね。
御館の乱分岐点:武田の和睦
5月:このとき景虎の生家・北条は佐竹氏と戦中でした。
そこで景虎の兄・氏政は、蘆名や伊達に景虎の救援を要請し、蒲原安田城を攻略。
氏政は同盟国の武田にも、景虎救援を要請します。
5月29日:武田勝頼は越後との国境まで進軍。
6 月:武田がこのまま攻めてくると困る景勝は、新発田長敦たちを派遣して、武田に和睦を持ちかけます。
一説にはこの和睦を持ちかけるために、勝頼の家臣に賄賂(わいろ)を渡していたともいわれています。
そして景勝は武田に、約一万両の黄金と、上杉領の一部を譲渡して和睦。
証として勝頼の妹・菊姫と婚約、また勝頼は景勝に、景虎と争うのをやめることを条件にしました。
この和睦で武田勝頼は景勝寄りの中立になり、景勝と景虎が一時的に和平を結びます。
8月:この武田の隙を狙った徳川が武田領に侵攻開始。
そのため武田が越後から撤退し甲斐へ戻ると、景勝と景虎は再び争うことになりました。
武田が景勝に取り込まれてしまったのは、景虎からすると大きな痛手になりますね。
御館の乱分岐点:雪で撤退
9月:武田の撤退を知った北条氏政は、やっと行動を起こします。
北条軍は三国峠を越え、樺沢城(かばのさわじょう)を攻略し、坂戸城(さかどじょう)を攻めます。
北条は雪の季節には撤退せざるを得ないと景勝は考え、なんとか長期戦に持ち込み守り抜きました。
読み通り北条軍は冬の前に一時撤退。
10月には御館の兵糧(ひょうろう)が尽き、一度は搬入に成功。
そして春日山城を攻めるも景勝軍により撃退されます。
勢いに乗った景勝はこの冬での決着を目指します。
年が明けて天正7年2月、景勝は御館へ総攻撃を仕掛けました。
また樺沢城も景勝軍に奪われ、北条軍は雪のため進軍叶わず。
景虎は追い詰められていきます。
景虎の自害
天正7年3月:御館の上杉憲政が景虎の息子・道満丸を連れて、和議を申し入れるため景勝の元へ向かいます。
しかし二人とも景勝の家臣に殺されてしまいます。
※最近では道満丸の子孫だと思う、という方がいらっしゃるので、もしかすると秘密裏に逃していた説もあり。(そうだったらいいですよネ!)
その後に御館は攻め込まれ、景虎と清円院は北条領まで逃げようと、途中の鮫ヶ尾城に行きます。
しかし城主の堀江宗親は景勝に寝返っていました。
追い詰められた景虎と清円院は、3月24日、鮫ヶ尾城にて自害。
※清円院は御館で自害したといわれていますが、没年が3月24日と記されているため、鮫ヶ尾城まで景虎と一緒だった可能性が高いということになります。
仙洞院はその後、景勝の庇護のもと暮らしているので、御館にいたならば連れ出されたのですね。
景勝派 | 景虎派 |
上田長尾氏 | 古志長尾氏 |
樋口 与六 (直江 兼続) |
(前関東管領) 上杉 憲政:惨殺 |
直江 信綱 | (暗殺) 柿崎晴家 |
斉藤 朝信 | (雪で撤退) 北条 氏政 |
河田 長親 | (中立:ほぼ裏切り) 武田 勝頼 |
新発田 長敦 | 伊達 輝宗 |
色部 長実 | (討死) 上杉 景信 |
本庄 繁長 | 本庄 秀綱 |
(上条上杉) 畠山 義春 |
山本寺 定長 |
(山浦上杉) 山浦 国清 |
神余 親綱 |
甘粕 景持 | 蘆名 盛氏 |
(討死) 北条 高広 |
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(寝返る) 堀江 宗親 |
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花ヶ前(父子) | |
• • • |
• • • |
また景虎自害後も、神余親綱や本庄秀綱たちは、最後まで諦めずに抵抗を続けました。
そのため御館の乱が終息したのは天正8年、景虎の自害から約1年後くらいになります。
そして景勝は乱の終息後に「去年以来の鬱憤を晴らし大慶である」と言ったそうです。
御館の乱以降の上杉家
御館の乱で上杉家の兵力は大きく減退、さらに国力も衰退しました。
天正7年:9〜10月には、婚約していた武田の菊姫と景勝は結婚しています。
乱のあと国内はまだまだ落ち着かず、今度は武功の恩賞が原因で争いが始まります。
なぜなら景勝は、生家の上田長尾氏の支配体制を整え、上田衆を厚遇。
つまり御館で景勝に味方した、謙信公にも仕えた家臣まで恩賞を抑制し、その体制から取り除いたからです。
このいざこざに巻き込まれた直江信綱は、不運にも殺されてしまいます。
景勝は直江家が途絶えないように、信綱の妻・お船の方と兼続を結婚させました。
こうして「直江兼続」が誕生。
さらに新発田重家もこの不満から、織田と手を組み乱を起こし、反乱は約7年も続いたそうです。
一方北条は裏切った武田に激怒して、武田との同盟を破棄し、織田と徳川と同盟を組みます。
武田が窮地に追いやられても、景勝は救援しに行く余裕もなく、武田が滅亡しました。(武田家の子孫は続いています!)
天正10年:織田の大軍が攻めてくるのを、死を覚悟で景勝は備えるも、本能寺の変により信長が死去。
景勝はまさに急死に一生を得ます。
豊臣政権下では秀吉に味方し、慶長3年に会津120万石に移封。(出世)
春日山城には堀秀治が入城します。
実は景虎に味方した居多(こた)神社の宮司、花ヶ前(はながさき)氏は、景勝から攻撃を受けて国外へ逃げていました。
神社はこの攻撃で焼失するも、堀秀治の入城をきっかけに、花ヶ前氏は越後に再び帰国しています。
関ヶ原の戦いでは上杉は西軍につきましたので、東軍勝利のあとは徳川幕府になります。
そのため慶長6年に徳川家康の命により、上杉は米沢30万石に減移封されました。
ちなみにその後の上杉家の家系の中で、景虎の血脈が米沢4代藩主を務めています。
ちょっと遠いかもしれませんが、景虎の血筋が上杉当主を務めたことは、少し報われた気持ちがしますね。
ちなみに景勝の跡をついだのは、息子の定勝。
代々の「景」ではなく自分の「勝」を受け継がせたのですね。
御館の乱まとめ
みなさんお疲れ様でした!(笑)
最後まで読んでいただきまして、感謝します。
私は謙信公は関東管領に関して、景虎にと考えていた節はあったんじゃないかと思います。
しかしながら何も道満丸まで殺さなくてもいいじゃん!という気持ちになってしまいますよね。
また「上杉謙信」だったからこそ、国としてお家がまとまっていたんですね。
さすがのカリスマ性!
そして御館の乱は為景時代からの、上田長尾氏・古志長尾氏の対立が根本的な原因であり、景虎が始めた争いではないのです。
景虎に対する誤解も解けたらいいなと思います。
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