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上杉謙信はどんな人?エピソードから見える人物像!死因・辞世の句は?

上杉謙信 エピソード 人物像 死因 辞世の句
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  • 上杉謙信って聞いたことはあるけどよく分からない

  • 謙信公が大好きで、いろんなエピソードを知りたい

  • なんで脳溢血で亡くなったっていわれてるの?

「義」の武将といわれる上杉謙信公。

神秘に包まれたイメージですが、どんな人物だったのでしょうか。

今回は謙信公のいくつかのエピソードから、人物像を推測していきましょう♪

また死因について定説の根拠を挙げてみました。

さぁ!謙信公好きは集まれ〜!

※歴史には諸説ありますので、その中の一つとして見てくださいね。

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上杉謙信とは?プロフィール

時は戦国、越後(新潟)を統一した大名、上杉謙信。

15歳で初陣を飾り、生涯70回の戦のうち、敗戦はたったの2回。

この強さから「軍神」「越後の龍」などと呼ばれていました。

またライバルの武田信玄とは、12年にも及ぶ5回の川中島の戦いを繰り広げましたが、いずれも引き分けでした。

プロフィール

名 前:虎千代→景虎→政虎→輝虎→謙信

誕生日:享禄3年1月21日
   (1530年2月28日:グレゴリオ暦)

身 長156〜160㎝(甲冑の大きさから)

血液型AB型(血判から)

愛 馬放生月毛(ほうしょうつきげ)

放生月毛は武田信玄との一騎討ちで乗っていたといわれています。

ただし信玄との一騎討ちが本当にあったのかは不明。

上杉謙信はどんな人?

強くて義理堅く、おおらかで懐の深い人•••そんなイメージが定着しているのではないでしょうか。

それだけじゃない魅力がもっとあります!

実は謙信公はすごく短気だったともいわれ、人間らしいお話しもあります。

では一緒に人物像を想像してみましょう♪

エピソード1:幼少期はわんぱく!?

謙信公は越後守護代の、長尾為景の四男として生まれました。

幼少期はとても活発すぎたようで、実父に疎まれ(理由諸説あり)7歳のころに「林泉寺」に預けらました。

お寺でもわんぱくは直らず、ケンカもしていたんだとか。

また城の模型で兵法を考えるのが好きだったそうで、当時の住職「天室光育」は謙信公は将来大物になるであろうと思っていました。

謙信公は14歳までこの林泉寺で過ごしました。

偉大な謙信公もこのような時代があったのですね。

エピソード2:出家騒動

謙信公は病弱だった兄・晴景にかわり、19歳で家督を継ぐことになります。

この頃の越後では内乱が頻発し、戦が絶えませんでした。

そんななか反乱を鎮圧した謙信公は22歳のときに越後を統一。

しかし今度は家臣同士の内部抗争が謙信公を悩ませます。

いつまでも続く身内同士の争いに嫌気がさし、家臣に「出家します」と伝え、26歳のときに高野山を目指しました。

出奔(しゅっぽん)した謙信公を追いかけ、やっと追いついた家臣が必死に説得します。

家臣
家臣
これからはつつしんで忠実に付き従い、裏切りの心は決して持ちません

そしてなんとかその場は収まりました。

このときは出家をやめて帰城しました。

一説にはこの謙信公の行動は一つの人身掌握の作戦であったともいわれています。

謙信公はせっかく国をまとめようとしているのに!

家臣同士が腹を探り合い、いつ謀反が起こるのか分からない状況なんて、考えるだけでしんどいですね!

こんなことが続けば嫌にもなってしまいますよね。

エピソード3:敵に塩を送る?

敵に塩を送るエピソードはとても有名ですよね。

武田領の甲斐は内陸で海に面していないため、塩が自国で生産できません。

あるとき武田の入手ルートだった今川に、塩の流通を止められてしまいます。

これを知った謙信公は

上杉謙信
上杉謙信
決着は戦でつけるものだ。塩で攻めるのは間違っている

として武田へ塩を供給しました。

ですが「タダ」で送ったわけではなく

商売として塩を武田に売っていたと思われます。

意外でしたか?(笑)

売る側としてはこんな機会は逃せませんよね!

商売のライバルがいなく、自分のところからだけ買ってくれるんですから。

ただ高値で売りつけるなどのことはしなかったといいます。

一国の当主として、商売も大切ですよね。

エピソード4:お酒大好き!

謙信様といえば、やっぱりお酒ははずせないところですね!

とてもお酒に強かったそうで、酔っ払って醜態をさらすなんてことはありませんでした。

一人で縁側から、花見酒や月見酒など風情を大切にして飲むのがお好きだったようです。

おつまみは大好きな梅干しや味噌など。

お酒はほとんど毎日の日課でした。

戦でも馬に乗っていても、もちろん飲んでました。(←すごすぎる)

あなたは恐らくおちょこで飲む姿を想像しませんでしたか?

実は直径12㎝ほどの盃で飲んでいたそうですよ。

謙信公との飲み比べには勝てそうにないですね。

エピソード5:腹筋に候

腹筋に候(はらすじにそうろう)これは謙信公が書いた手紙の一文です。

これは一時期ネットで話題になりました。

「おもしろすぎて腹筋崩壊」という意味。

神秘的で「義」というイメージが強い謙信公が、腹筋崩壊って•••親近感が湧いてきますね!笑

この当時は上杉と北条は対立関係にありました。

腹筋の手紙は、北条氏政が佐竹氏に戦で敗れたときの内容です。

上杉謙信
上杉謙信
佐竹にすら負けたのに、私が越後から攻めたとき、戦いを交えるのだとしたら、おかしすぎて腹筋崩壊なんですけど

腹筋崩壊に関する全文はこんな感じの意味になります。(手紙自体はもっと長いです)

謙信公が自分の強さを自覚してるゆえの内容でしょうか。

この手紙の内容に現代人の私たちはなんだか癒されましたね(笑)

エピソード6:武田信玄の逝去

1573年4月のこと、武田信玄は病にて逝去されました。

これを知った謙信公は

「まことに惜しい人をなくしたものだ」

そう言って、涙を流しました。

謙信公は信玄の死の知らせから3日間、城下での音楽などを禁止しました。

また武田信玄は息子の勝頼に遺言をのこしました。

武田信玄
武田信玄
信玄は大人げがなくできなかったが、上杉とは和睦を結ぶこと、そして何かあれば上杉謙信に頼れ

 

ずっとライバル関係だった二人の気持ちが垣間見えるお話ですね。

義の武将のジレンマ

みなさん知っての通り「義」の武将、上杉謙信。

私利私欲がなく、大義名分を作って戦い、助けを求められれば助けにいく。

そして家臣に何度裏切られても、許しを請われると許してしまう。

ワンピースでいうと、白ひげのように懐の深いお方ですよね。

裏切られて許すなんて、なかなかできるものではありません。

そんなおおらかさに魅力を感じてしまいますね。

しかしこの魅力が謙信公のジレンマでもあります。

他の大名たちとは異なり、謙信公は領土の拡大のための戦はしていませんでした。

他国では戦の武功をたてた家臣に対し、褒美として領地や城を与え任せることが一般的であり、武将の誉れでした。

越後国では領土拡大をしていないがために、他国のような褒美を与えることができなかったのです。

それゆえに不満を抱く者が出てきてしまい、裏切り・謀反が多かったと思われます。

なので戦のときに敵国での略奪に関しては、特に止めたりはしなかったそうです。

ちなみに同じ人に二回も裏切られたりもしています。

謀反が失敗しても「謙信公なら許してくれる」なんて気持ちがあったのかもしれませんね。

もちろん付き従う家臣も多かったですが、裏切りの背景にはこのようなことがあったと考えられます。

義に生きた反面、一国の当主としてはこうしたジレンマを抱えていました。

死因:定説の根拠

現在では謙信公の死因として一番有力な説は、脳溢血(のういっけつ)などの脳血管障害といわれています。

なぜ脳溢血が有力だと思われるのでしょうか?

考えられる原因

  • ストレス

  • 高血圧

  • 糖尿病

まず食事面からみていきます。

豪華な食事は戦の前だけで、普段の生活ではとても質素な食事でした。

ですが大の酒好きの謙信公、飲酒は日課。

問題はお酒そのものよりも、おつまみにあります。

謙信公は梅干しや味噌、塩などをお酒のつまみとして食べていたそうです。

食事は質素といえども越後国は寒冷地なので、味付けは濃かったと考えられます。

食事とおつまみで相当な塩分を毎日摂取していますね。

慢性的な高血圧だったのではないかと思われます。

また謙信公は性格的に短気であったと伝えられていますので、ストレスが溜まりやすく、興奮で血圧も上がっていたことでしょう。

31〜32歳の頃には、左脚が気腫により脚を引きずらなければ歩けなかったそうです。

気腫とは漢方医学の語でリウマチや痛風を意味します。

個人的にリウマチではなさそうに思いますが、痛風は分からないですね•••。

しかしこれは昔の医学ですから、現代の見解では「糖尿病による合併症」ではないかといわれています。

そして実際に41歳の頃には、軽い脳血管障害を発症しています。

その後遺症で、手が麻痺し震えていたと

直江兼続は日ごと痩せていく謙信公を見て、死が近いのではないかと心配していたそうです。

嘔吐してしまうため食べることすら難しくなっていたとのことでした。

そして謙信公49歳のとき3月9日の春日山城の閑所(かんじょ)にて、倒れてしまいます。

閑所とは静かな場所のことで、書斎やトイレなどを意味します。

一般的には倒れたのはトイレとして認知されていますね。

この4日後の13日に逝去されました。

脳溢血は高血圧や糖尿病などが主な原因の一つともいわれています。

これらの一連の流れを見ると、脳溢血説が有力なのが理解できますね。

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上杉謙信:辞世の句

辞世の句とは、死ぬ前に詠む和歌や俳句のことをいいます。

前もって作ったり、本人の死後に家臣が作ったりします。

中には本当に死の直前に詠む人もいたかもしれません。

謙信公の場合はどれに当てはまるのか分かりませんが、この二つが謙信公の辞世の句と伝わっています。

「極楽も地獄も先は有明の月の心に懸かる雲なし」

「これから行く先が、極楽だろうと地獄であろうとも、心は夜明けの月のようにスッキリと晴れ渡っている」

という意味になります。

毘沙門天や摩利支天など信仰にあつかった謙信公が、「心が晴れているから行くさきはどっちでもいい」と言っているなんて、悟りをを開いた感じがしますね。

常に戦い続きだった謙信公だから、感じた境地だったのでしょうか。

「四十九年 一睡夢 一期栄華 一盃酒」

「四十九年の人生は一睡ばかしの夢のようであった。

そしてこの世の栄華というものはこの一盃の酒を飲んでいるようなもの」

このような意味になります。

辞世の句でさえもお酒で例えるところが、やはり謙信公が作った句なのではないかと思わせてくれますね。

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まとめ

今回のまとめは以下の通りです。

上杉謙信どんな人?

  • 幼少期はわんぱくガキ大将

  • 争いが嫌で出家しようとする

  • 敵に塩を売る

  • お酒は日課(馬の上でも戦っていても飲む)

  • 「あいつ弱いくせに私と戦うとか腹筋崩壊」

  • ライバル信玄の死には涙

  • 義の武将と一国の当主としてジレンマ

  • 裏切られてもだいたいは許しちゃう

  • 性格は短気と伝えられている(怒ると止まらない)

  • 死因は生活習慣病からの脳溢血が有力

  • 辞世の句もお酒登場

神秘的なイメージで、義理堅い上杉謙信•••

だけではなく、「人間っぽい」お話しがまた新たな魅力を付け足してくれますね。

昨今では冷静なキャラクター像でゲームなどに登場しますが、意外に“アツイ”と思いませんか?(笑)

モモ
モモ
今回も最後まで読んでいただき、感謝しています♪
ありがとうございました!
この記事が少しでもあなたのお役に立てましたら幸いです。

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ではまた次回!以上、モモでした〜。

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