皆さんこんにちは、いつもありがとうございます。
突然ですが、あなたは「上杉景虎」という人はご存知でしょうか?
•••はい、そうですそうです!
景虎は上杉謙信公の養子であり、北条氏康の実子でございますね!(笑)
景虎といえば、御館(おたて)の乱で、同じく謙信公の養子・景勝と争ったというイメージが強いと思います。
ちなみに御館の乱の勝者は、言わずもがな上杉景勝。
※御館の乱…上杉謙信亡きあと起きた、上杉家の跡目争い。
それゆえなのか、負けた上杉景虎に関する史料はとても少なく、どんな人物だったのか詳しくは分かっていません。
一説には三国一の美少年だったといわれています。
※三国とは当時同盟を組んでいた、甲斐・相模・駿河。
今回は戦国という乱世を生きた、悲劇のイケメン「上杉景虎」の人生を共にみていきましょう。
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上杉景虎の幼少期
1554年の小田原にて、北条氏康の七男として生まれた男児。
幼名を西堂丸または竹王丸、後の上杉景虎です。
景虎は子どもの頃に箱根早雲寺(はこねそううんじ)に預けられ、喝食(かっしき)をしていました。
※喝食…諸僧に食事を知らせて、種類や食事の進め方を告げるお役目、また稚児と同意。
僧侶や武士の衆道のお相手に選ばれることもあったそうですが、景虎がそうであったかは不明。
元服後には北条三郎(ほうじょうさぶろう)と改名します。(七男なのに三郎…)
また十四年続く三国同盟の中で、景虎は武田家で人質として過ごした時期があったといわれています。
この年に歴史を大きく動かす出来事がありました。
桶狭間の戦いにて、北条と同盟関係にあった今川が織田に討たれたのです。
そのため今川は急激に弱体化しました。
しかしこの時点ではまだ三国同盟は続きます。
桶狭間から七年後のことです。
今川は武田へ塩止めをしてしまいます。
翌1568年に武田は今川領の駿河(するが)へ侵攻開始。
そのときに甲斐の巷(ちまた)では、景虎がイケメンだったことに絡めた流行り唄まであったそう。
上杉謙信の養子・景虎誕生
武田から北条に帰還した景虎は、北条幻庵の娘と結婚し、幻庵の養子となりました。
夫婦仲も良かったとされており、ここから幸せな家庭を築いていこうというところですね!
これで人質生活も報われるというものです。
一方このとき北条と上杉はバチバチの対立関係でした。
しかし三国同盟が解消されていたため、北条は上杉へ和睦を申し入れることに。
北条と上杉の同盟が成立します。
はい同盟成立しましたが、何かイヤな予感がしてきませんか?(笑)
ここでまた「人質が必要」になってくるわけです。
北条氏康は最初、孫の国増丸を上杉に人質として送るつもりでした。
“でした”が!国増丸の父・氏政がそれを渋ったため、景虎もとい三郎に白羽の矢がたったのです。
長年バチバチの敵対関係だった国へ、人質として行くのは不安だったでしょうね。
結婚したばかりで幸せの中にいたときに、離縁だなんて切ない•••。
しかしながら景虎(三郎)を迎えたのは、義の武将・上杉謙信公。
謙信公は景虎を気に入り、人質ではなく自身の養子として迎え入れました。
さらには謙信公若き日の名前「景虎」を与え、ここに上杉景虎が誕生します。
ちなみにフルネームは「上杉三郎景虎」
謙信公は春日山城の本丸に近い三の丸に、景虎の屋敷をかまえて住まわせました。
※本丸とは城の最重要部分で、謙信公の住まいであり、本丸の周りに二の丸、三の丸などがあります。
敵国の人質を謙信公自身の近くに住まわせるとは、景虎の信頼度の高さが分かりますね。
もうまさに破格の待遇!
1570年:謙信公の姉で、景勝の母・仙桃院の娘を景虎に娶(めと)らせました。
近年では景虎と結婚したのは、次女ではなく長女の「清円院」といわれています。
ここで景虎と景勝は義兄弟になったわけですね。
1571年:景虎と清円院との間に、嫡男の「道満丸」が生まれます。
このときは景勝とも仲は悪くなかったようで、仙桃院も景虎に優しかったといわれています。
景虎がやっと幸せに•••!
道満丸誕生と同年に景虎の実父・北条氏康が逝去します。
もともと同盟の人質として来ていた景虎。
同盟が破棄された今、上杉にこれ以上いる必要はなくなるワケです。
ですがそこは謙信公!
謙信公はもちろん景虎を殺しませんし、むしろ景虎を見捨てた氏政に憤(いきどお)っていました。
景虎もまた、みずからの意思で上杉に残ることに決めます。(良かった•••)
もしかすると景虎にはそもそも北条に帰る選択肢すらなかったのかもしれませんね。
しかし謙信公の養子といえども、北条出身という身の上。
景虎への周囲の風当たりは強くなったのかも…と想像してしまいます。
御館の乱
1578年3月の春日山城に衝撃が走ります。
上杉謙信公が急死したのです。
このとき景虎25歳、景勝24歳。
上杉に残った景虎の「謙信公への気持ち」を思うと、雷にうたれた心地だったことでしょう。
そして上杉の跡取りが正式に決まっていなかったこともあり、景虎と景勝の跡目争いが始まってしまいます。
1年もの間続く御館(おたて)の乱です。
御館の乱の結果…
景虎勢の景勝軍への寝返りや、雪による景虎救援困難など劣勢に。
1579年に裏切りにより、ついに追い込まれた景虎は自害。
享年26歳という若さでした。
正室の清円院も景虎と共に自害。
息子の道満丸は、景勝軍に殺されたとされています。
なんとも周囲の運命に振り回される人生でした。
景虎もまた戦国という激動の時代に巻き込まれた一人だったのですね。
「ただ家族と幸せに暮らせたら良かった」と、景虎は思っていたのではないでしょうか。
私はそのように感じます。
妻と息子を守るためには、争いに立ち向かうしかなかったのでしょうね。
⇩御館の乱の詳細はこちらからどうぞ♪
まとめ
-上杉景虎-
1554年:北条氏康の七男として誕生。
幼少期は箱根早雲寺に預けられていた。
甲相駿三国同盟により、武田で人質として過ごす。
1568年:三国同盟破綻により、景虎は北条へ帰還。
1569年:景虎は北条幻庵の娘と結婚し、幻庵の養子になる。
→北条と上杉の同盟により、上杉へ人質に行くことになり離縁。
数ヶ月後:謙信公の養子として迎えられる。(17歳)
謙信公から「景虎」の名を与えられる。
1570年:景勝の姉・清円院(華姫)と結婚。
1571年:景虎と清円院の間に嫡男「道満丸」誕生。
実父・北条氏康逝去、北条と上杉の同盟が破綻。
→しかし景虎は越後に残る。
1578年:上杉謙信公が逝去。
跡目争い(御館の乱)が始まる。
1579年:景虎、鮫ヶ尾城で自害。(26歳)
上杉景虎という人の人生を垣間見ましたね。
乱世に流され、短くも最期まで諦めずに生き抜いた美少年。
彼は何を想い、何を考え、戦国という時代を生きたのでしょうか。
上杉景虎のさらなる歴史研究の発展が楽しみですね。
次回は御館の乱を深掘りしていきます。