「尊王攘夷(そんのうじょうい)」という言葉は学生時代から、歴史を学ぶ上で、よく耳にしますよね。
聞いたことはあるけど「実際、意味まではよく分からない」という方も多いのではないでしょうか。
複雑な幕末を勉強するなかで、尊王攘夷と水戸学について知っていると、以下のようなメリットがあります!
例えば物事の背景や、登場人物の根底にある思想が理解しやすくなります。
思想は行動に繋がるので、対象の人物像が以前より見えてくるはずです。
今回は「尊王攘夷」略して「尊攘」と、尊攘思想の先駆けとなった「水戸学(みとがく)」について、分かりやすく解説していきます。
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尊王攘夷とは
尊王…主君(朝廷、つまり天皇)を尊び、崇拝する思想。
攘夷…夷狄(外国人)は危険だから、武力で追払い、独立国家を継続しようという思想。
上記の二つの思想が合わさって「尊王攘夷」ということになります。
実はこの考え方は※徳川御三家(とくがわごさんけ)の一つである、水戸藩から生まれました。
皮肉にも水戸藩から生まれた尊攘思想が、時代の流れとともに「倒幕(とうばく)」へと、過激に変化していくことになります。
※徳川御三家…もとは家康の子が当主となったお家で、特に重用され「御三家」と呼ばれていました。(尾張・紀州・水戸)
ではどのようにして尊攘思想が生まれていったのでしょうか。
水戸学のきっかけ
時代は水戸藩2代目藩主、徳川光圀(みつくに)までさかのぼります。
光圀といえば、皆さんご存知の水戸黄門(みとこうもん)ですね!
この光圀があるとき思いつきました。
こうして約200年以上かかることになる、水戸藩の一大事業「大日本史」の編纂(へんさん)が始まりました。
大日本史を作るにあたり、日本の歴史を辿(たど)っていくと“あること”が判明します。
ただ光圀の時代では、特に武家政権に対する問題視や批判はありませんでした。
しかしこの発見がきっかけで後々いろんな思想が生み出されていきます。
尊王思想
時は水戸藩6代目藩主の頃です。
藤田幽谷(ゆうこく)という儒学者がいました。
幽谷は著書「正名論」にて、いかに尊王が重要であるかを説いています。
そうなれば藩士は大名を敬うようになり、秩序が保たれるのだ。
だから「尊王」がとても重要になる。
といったような内容です。
こうして水戸藩に「尊王思想」が生まれました。
水戸学と尊王攘夷
水戸藩9代目藩主、徳川斉昭(15代将軍・慶喜の実父)は、藩校である「弘道館」を設立しました。
いっぽう藤田幽谷の考えを受け継いでいた会沢正志斎・藤田東湖たち。
彼らは幽谷の唱えた「尊王」と、外国に脅かされている国家を守るために「攘夷」が必要であると主張。
この考えが「水戸学」になります。
藩校の弘道館では「水戸学」も教えました。
水戸学は全国に広められ、長州藩など他の藩にも浸透していきます。
幕末で活躍する志士を多く輩出した、長州出身の吉田松陰なども水戸学を学んでいます。
なのでこの時代から藩校で教えを学んだ水戸藩士は、どこよりも「尊王攘夷」という思想が強いです。
こうして徳川御三家と呼ばれた水戸藩が、「水戸学」によって、奇(く)しくも「尊王攘夷」の先駆けとなってしまいました。
まとめ
尊王攘夷とは?
尊王…天皇を尊び、崇拝する思想。
攘夷…夷狄(外国人)は危険だから、武力で追払い、独立国家を継続しようという思想。
上記の二つが合体した思想が「尊王攘夷」
水戸学とは?
水戸学とは藤田幽谷(ゆうこく)が唱えた「尊王思想」に加え、外国の脅威から国を守るために外国人を追い払う「攘夷」が必要だという教え。
9代目水戸藩主の徳川斉昭(なりあき)が設立した藩校にて、水戸学を教える。
水戸学は全国に広がり、水戸藩は「尊王攘夷」の先駆けとなった。
これにより水戸藩出身者は特に「尊攘思想」が強くなる。
「尊王攘夷」の思想は、幕府が外国と条約を結ぶことで、だんだん過激に変化していきました。
条約による日本国内の物価高騰(こうとう)や、外国から持ち込まれたコレラの流行が、さらに攘夷を加速させていくことになります。
幕府の親戚にあたる水戸藩の教えが、幕府を苦しめ「倒幕」にまで繋がってしまうとは、この時はまだ誰も、夢にも思わなかったことでしょう。