幕府では日米和親条約、日米修好通商条約と並行して起こっていた問題があります。
それが将軍継嗣問題。
将軍継嗣問題と聞くと、何んだか難しそうな気がしますよね。
簡単に言うと「次の将軍の跡継ぎ問題」ということになります。
幕府は大きな問題を2つも同時に抱えていたのです。
しかも内部分裂してしまうほど重要な問題でした。
戦国時代のような、天下を競い合っている頃の跡目争いは、定番のように思います。
ですが幕末の江戸幕府、一体どのような理由で派閥争いにまで発展したのでしょうか?
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将軍継嗣問題とは
将軍継嗣問題とは「次の将軍を誰にするか」という問題。
嘉永6年10月に就任した13代将軍の「徳川家定」のときです。
家定は生まれつき体が弱くて、人前に出るのが大嫌いな引っ込み思案な性格。
正妻はいましたが、2人とも早くに病死し、家定には子どもはいませんでした。
また3人目の正妻は、11代目薩摩藩主・島津 斉彬 の養女、篤姫。
篤姫との間にも子どもを授かることはなく、今後も後継ぎが生まれる見込みがありませんでした。
外国に脅かされている国家の現状を前に、次の将軍を擁立しておかないとマズイと考えます。
南紀派VS一橋派
この将軍継嗣問題にて、幕府が二分化してしまいます。
まず将軍擁立に対して、考え方がハッキリと別れてしまいました。
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従来より将軍になるには血筋が大切だから、より将軍に相応しい血縁のお方にするべき。
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今は国家に危機が迫っているため、乗り越えられるような有能な人物を将軍にするべき。
この2つの派閥(グループ)が争うことになります。
↑読んでおくと大名の種類が分かりやすくなります♪
南紀派
❶の理由で推されたのは紀州藩主の徳川慶福(後の家茂)でした。
慶福は11代将軍・徳川家斉の孫で、現将軍・家定のいとこになります。(←血筋バツグン!)
紀州の慶福を推した派閥を「南紀派」と言います。
南紀派は 井伊直弼 をはじめとした、主にもともと政治の中心だった譜代大名や、保守派の親藩。
徳川斉昭(慶喜の実父)を嫌っていた大奥も南紀派でした。
斉昭は大奥のお金の使い方を問題にしていたことと、スケベだったから嫌われていたそうです。(セクハラおやじかっ!)
また 慶福 がとても美少年だったのも、大奥が推した理由の1つなんだとか…。
そして現将軍の家定も慶福寄り。
家定は一橋慶喜に対して劣等感があったためです。
一橋派
❷の理由で推されたのは一橋徳川家を相続していた、一橋(徳川)慶喜です。
慶喜は親藩の水戸藩出身で、徳川斉昭の息子。
「徳川家康の再来」とまで言われ、能力を重要視する者たちは、まだ幼い慶福ではなく一橋慶喜を推しました。
この派閥を「一橋派」といいます。
一橋派は徳川斉昭や、薩摩の 島津斉彬 などの、親藩・外様といった今まで政治に口を出せなかった大名たち。
また孝明天皇も、慶福より年上である慶喜を将軍に推しています。
一橋派・南紀派早見表
よく南紀派=開国派、一橋派=攘夷派とひと括りに考えてしまいがちです。
ですが表のように、一橋派のなかでも攘夷派や開国派がいました。
それだけ色んな考え方が複雑に絡み合った時勢だったので、当時の混沌とした様子が浮かびますね。
結果…
一橋派は家定や大奥を説得するため、篤姫にその役をお願いするなど画策するも、南紀派が優勢になります。
決定的だったのが、安政5年4月23日に井伊直弼が大老に就任したこと。
大老とは幕府の臨時職でありながら、老中をも上回り、将軍の次に権力を誇った役職。
南紀派の井伊直弼が大老に就任したことで、井伊の発言力がアップ。
また安政5年6月19日に日米修好通商条約が結ばれると、徳川斉昭らが「天皇が許可していない」として憤り、24日に不時登城します。
不時登城…当時の江戸城は、登城日が決まっていたので、それ以外の登城は禁じられていました。
この「押しかけ登城」のことを、「不時登城」といいます。
不時登城の罪により、徳川斉昭は謹慎処分、慶喜はしばらくの間、登城を禁止されました。
安政5年7月6日に13代将軍・徳川家定が亡くなると、同年10月25日に徳川慶福が将軍に就任することになりました。
こうして慶福改め、14代将軍・徳川家茂 が誕生。
家茂はこのときまだ13歳だったため、田安徳川家の当主・徳川慶頼 が 将軍後見職として就任することに。
将軍後見職とは幕府の役職で、幼い将軍の補佐役です。
まとめ
今回のまとめ!
将軍継嗣問題とは、次の将軍を誰にするのかという問題。
13代将軍・徳川家定は体が弱く、突然病気で亡くなってしまうかもしれない可能性もあり、後継ぎとなる子どももいないため問題になった。
意見が分かれ、幕府に2つの派閥ができる。
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南紀派…従来通り、血筋を重視する派閥で、徳川慶福を将軍に推奨。
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一橋派…国の危機のため、幼い慶福ではなく、年上で能力も優秀な一橋(徳川)慶喜を将軍に推す派閥。
井伊直弼が大老に就任したことで、徳川慶福を将軍に擁立することに成功。
南紀派の勝利となった。
幕末の将軍といえば、徳川慶喜のイメージが強いですが、その前に徳川家茂という将軍がいました。
家茂は4歳で紀州藩の当主になったり、血筋のため本当に幼い頃から、時代の流れに振り回されていた方です。
後見人はいた訳ですけど、13歳で国の危機を任されるって、現代の価値観では考えられないですよね。
しかし家茂は穏やかでとても優しい人柄だったそうですよ。