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理由があった!安政の大獄から桜田門外の変までを分かりやすく解説

安政の大獄 戊午の密勅 桜田門外の変 弾圧
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安政あんせい大獄たいごく から 桜田門外さくらだもんがいへん までの流れを、分かりやすく解説します。

今回の記事はこのような方におすすめ!

  • 安政の大獄って何?

  • 安政の大獄は「なぜ・いつ」起きたの?

  • 桜田門外の変と関係あるの?

おそらく学校では「なぜ」の部分は、教わらないと思います。(少なくとも私の学生の頃の記憶にない…。)

そのため「井伊直弼いいなおすけ は怖い人」というイメージがあるかもしれません。

家康時代の徳川四天王だった井伊直政の「赤備え」に絡めて、当時の人々も直弼のことを「井伊の赤鬼」と呼んで恐れたそうです。

ですが幕府のウラ事情が分かれば、直弼の行動の理由が見えてきますよ。

今までの幕末記事を読んでくださっている方は、目次「戊午の密勅」までジャンプしていただくといいかなと思います。

お手数おかけします。

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安政の大獄とは

安政の大獄 井伊直弼安政の大獄とは、安政5年〜安政6年の間に行った、政治弾圧事件。

この弾圧を主導したのが、幕府の大老・井伊直弼でした。

弾圧の対象となったのは、「一橋ひとつばし派」や「尊王攘夷そんのうじょうい派」の人々です。

「一橋派」については、後ほど説明しますね。

結果的にはこの弾圧により、8名が処刑されて、100名以上が謹慎などの処罰を受けました。

それでは一体なぜ、井伊直弼はこのような弾圧に踏み切ったのでしょうか?

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外国の脅威と幕府の改革

時を戻そう。

嘉永かえい6年にペリーが日本にやってきました。

外国の脅威に現実味が増してくることになります。

もともと政治ができるのは「譜代ふだい大名」だけでした。

そこで時の老中首座・阿部正弘が改革を行います。

譜代・親藩しんぱん外様とざまなど立場に関係なく、また旗本・庶民など身分も問わず意見を求め、幅広い人材登用を実施。

阿部正弘の改革が、親藩や外様大名が「政治に口出しできる」きっかけになりました。

これが幕府内の混乱に繋がっていきます。

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将軍継嗣問題

将軍継嗣問題将軍継嗣問題しょうぐんけいしもんだいとは「次の14代将軍を誰にするのか」という問題です。

ここで幕府の意見が分裂してしまいます。

南紀派

譜代大名・井伊直弼を筆頭に、同じ譜代や保守派の親藩などは、「徳川慶福よしとみ」を次の将軍に推す、南紀派と呼ばれました。

南紀派は従来からの血筋を重視した、徳川の伝統的な受け継ぎ方です。

一橋派

待った」をかけたのは、親藩の水戸藩・徳川斉昭なりあき(慶喜の実父)や、外様の薩摩藩・島津斉彬なりあきらなどの一橋派。

一橋派は国家の危機を乗り越えられる有能な人物、慶福よりも年上の「一橋慶喜よしのぶを推していました。

井伊直弼
井伊直弼
いや、そもそも親藩や外様のくせに、なんで次期将軍の問題に口出してくるのだ!

将軍は我々が決める!

従来の伝統を重んじる直弼がそう思っているところ、安政5年4月23日に直弼は大老に任命されました。

大老は幕府の臨時職でありながら、将軍の次くらいの権力があります。

井伊直弼が大老になったことで、次の将軍は「徳川慶福」に決めてしまします。

仮に「一橋慶喜」が将軍になってしまうと、父である水戸藩主・徳川斉昭ら尊王攘夷派の力が増すことになります。

そうなると政権を奪われかねません。

「戦争を回避するため、開国は仕方ない」と考える幕府にとって避けたいところでした。

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日米修好通商条約

安政3年7月には、日米修好通商条約を結ぶため、ハリスが来日します。

幕府内では水戸藩・徳川斉昭らをはじめとする尊王攘夷派が条約調印に反対。

尊攘派を黙らせるために、幕府は孝明天皇に条約調印の許可をもらいに行きます。

しかし天皇からの許可はもらえませんでした。

そんななか安政5年4月に、井伊直弼が大老になったことで、条約調印を迫られていた日米修好通商条約も進展。

安政5年6月19日には、日米修好通商条約が締結ていけつしました。

条約締結に徳川斉昭らは憤慨ふんがい

徳川斉昭
徳川斉昭
井伊直弼め!
天皇の許可をもらわずに勝手に条約に調印するとは!
不届き者なり!

井伊直弼に抗議するため、徳川斉昭・慶喜・慶勝、松平慶永たちは江戸城に不時登城ふじとじょうしてしまいます。

不時登城…登城日以外の登城のことで、いわゆる押しかけ登城です。
江戸城は決められた日以外の登城は禁止されていました。

抗議の活動が裏目に出ます。

井伊直弼は徳川斉昭たちを、不時登城の罪で隠居・謹慎処分にしました。

慶喜は当分のあいだ登城禁止の程度。

これが安政の大獄の始まりです。

日米修好通商条約 なぜ結んだ 井伊直弼 ハリス 演説 下田奉行
不平等だった日米修好通商条約なぜ結んだの?井伊直弼の独断だった?\今回はこんな疑問があるあなたにオススメ/ 「不平等条約」といわれている 日米修好通商条約にちべいしゅうこうつうしょうじ...

戊午の密勅

安政の大獄 戊午の密勅戊午ぼご密勅みっちょく は、安政5年8月8日の出来事です。

条約調印に怒った孝明天皇が、幕府ではなく、水戸藩に勅書ちょくしょ(天皇の手紙)を送った事件のこと。

幕府にはこの2日後に届きました。

戊午…安政5年の干支。
密勅…朝廷内の正式な手続きをしていない勅書。

勅書の内容

  • 日米修好通商条約を勝手に調印したことを説明せよ。

  • 諸藩は幕府に協力して、※公武合体を目指すこと。

  • 幕府は攘夷を推進すること。

  • この内容は水戸藩が諸藩にまわすこと。

※公武合体…朝廷と幕府が協力して、再び幕藩体制の強化をしようという考え。

お分かりいただけただろうか…。

そうです、問題は朝廷が幕府じゃなく水戸藩に直接手紙を送ったこと!

本来であれば、幕府に送らなければいけません。

これを幕府の家臣にあたる水戸藩に、朝廷が直接命令を下したことになります。

これは200年余りの幕府の政治体制を大きく揺るがし、秩序が崩れてしまうような大問題!

現在の幕府からしてみると、水戸藩に政権を乗っ取られてしまう危機です。

井伊直弼は幕府崩壊の危機から、戊午の密勅に関わった人物を、徹底的に弾圧することを決意しました。

この弾圧が安政の大獄。

処罰された人物

安政の大獄では多くの志士や公家が処罰されました。

死罪8名、獄死6名、隠居・謹慎・流罪などの処罰者は100名以上に及びます。

安政の大獄で死刑になった人物
長州藩 吉田 松陰(よしだ しょういん)
福井藩 橋本 左内(はしもと さない)
水戸藩 安島 帯刀(あじま たてわき)
水戸藩 茅根 伊予之助(ちのね いよのすけ)
水戸藩 鵜飼 吉左衛門(うがい きちざえもん)
水戸藩 鵜飼 幸吉(うがい こうきち)
儒学者 頼 三樹三郎(らい みきさぶろう)
(元)土浦藩 飯泉 喜内(いいいずみ きない)

桜田門外の変

安政の大獄 桜田門外の変桜田門外さくらだもんがいへんとは安政7年3月3日に、江戸城の桜田門の近くで、井伊直弼が暗殺された事件のことです。

暗殺した犯人は、水戸の※脱藩浪士だっぱんろうし17名と、薩摩の脱藩浪士1名。

桜田門 国立国会図書館【桜田門】出典:国立国会図書館デジタルコレクション

安政6年12月から、幕府は水戸藩に対して、天皇の勅書(戊午の密勅)の返却を求めました。

水戸藩は頑として返却を拒否するも、幕府も譲らず返却を催促。

弾圧に不満を持っていた水戸藩士は、ついにこれが引き金となって、雪が降るなか井伊直弼を暗殺。

※脱藩浪士…藩を脱けた志士のこと。

ただ白昼堂々の犯行だったので、暗殺というより、襲撃事件って感じですよね。

この暗殺事件により、幕府の権威は落ちてしまいました。

まとめ

今回のまとめ!

安政の大獄

安政5年〜安政6年の間に行った、政治弾圧事件。

この弾圧を主導したのが、幕府の大老・井伊直弼。

弾圧の対象となったのは、「一橋ひとつばし派」や「尊王攘夷そんのうじょうい派」の人々。

原因

  • 将軍継嗣問題や日米修好通商条約を巡っての対立。
  • 戊午の密勅。

安政の大獄の結果

多くの志士や公家が処罰された。

死罪8名、獄死6名、隠居・謹慎・流罪などの処罰者は100名以上。

桜田門外の変

安政7年3月3日に、江戸城の桜田御門の近くで、井伊直弼が暗殺された事件。

暗殺した犯人は、水戸の脱藩浪士だっぱんろうし17名と、薩摩の脱藩浪士1名。

原因

  • 弾圧による不満。
  • 天皇の勅書の返却を要求されたこと。

結果

幕府の権威が失墜。

安政の大獄は、ペリーが来航してからというもの、全部繋がって起きた出来事だったんですね。

ここから段々と時代は倒幕へと傾いていきます。

幕府も水戸藩も、日本を思う心は一緒なのに、切ないなぁと思ってしまいますね。

基本的に幕府も開国はしたくないけど、外国との戦争を避けるための決断だったため、こうしたジレンマを抱えています。

井伊直弼も幕府立て直しのため、ものすごい覚悟で行動していたのではないでしょうか。

あなたはどう思いましたか?

モモ
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今回も最後まで読んでいただき、感謝しています♪
ありがとうございました!

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ではまた次回!以上、モモでした〜。

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