この記事はこんな疑問がある方におすすめ!
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公武合体ってなに?
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なんで尊王攘夷派は反対したの?
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坂下門外の変ってどんな事件?
今回はこの3つを中心に、簡単に解説していきます。
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公武合体とは
朝廷の権力で幕府の権威も回復させ、政治体制を立て直すことで、再び「幕藩体制」を強化しようという方針。
公家…朝廷
武家…幕府
公家と武家の協力路線。
ペリー来航以来、幕府の権威は徐々に落ちていきました。
さらに桜田門外の変にて、大老・井伊直弼が暗殺されたことで幕府の権威は失墜。
幕府としては、なんとしても権威を回復させたかったのです。
和宮の降嫁と尊攘派の解釈
大老・井伊直弼の死後、老中・安藤信正と 久世広周 が幕府を主導し、公武合体を推進。
そこで文久2年2月11日(1862年)に家茂と和宮が晴れて結婚。
公武合体政策の目玉だった!
14代将軍・徳川家茂と
孝明天皇の妹・和宮親子内親王 の
政略結婚。
ちなみに皇女・和宮が、将軍・家茂に嫁ぐことを、※降嫁といいます。
※降嫁…皇女が王族以外に、または臣下に嫁ぐこと。
最初は孝明天皇はこの結婚に反対でした。
しかし側仕え・岩倉具視 の説得により、条件付きで降嫁を許します。
結婚したということは、幕府はこの条件を一応受け入れたということになりますね。
そんなこととはつゆ知らず、過激な尊王攘夷派は…
幕府許せねぇ!
このように考えたため、尊攘派は「公武合体ダメ!絶対!」となりました。
幕府の意図せずに、攘夷派を刺激する結果になったのです。
お願いだから尊攘派の方、テロを起こさないでくれ…という気持ちになります。
天誅!坂下門外の変
文久2年1月15日の出来事。
水戸浪士による老中・安藤信正の暗殺未遂事件です。
私的な恨みよりも、政治批判の意味が強いテロ。
尊王攘夷を掲げる、水戸浪士6人が、江戸城の坂下御門の近くで襲撃。
しかし桜田門外の変より、警備を強化していたため、未遂に終わりました。
安藤信正が襲われたのは、公武合体のため、将軍と皇女の結婚を推し進めたことが理由。
不満を持った尊攘派の政治的テロ事件になります。
また政治的テロは、坂下門外の変だけではありませんでした。
この頃は京都でも「安政の大獄」や「公武合体」に関わった人たちを、次々襲撃する「天誅」という名のテロ事件が横行。
なかなか取り締まることもできず、無法地帯のようになっていました。
あまりに酷いテロに、当時の京都の人々は怖かったことでしょうね。
まとめ
今回のまとめ!
-公武合体-
朝廷の権力で幕府の権威も回復させ、政治体制を立て直すことで、再び「幕藩体制」を強化しようという方針。
将軍・家茂と皇女・和宮の結婚は、公武合体政策の象徴だった。
-ねらい-
幕府…権威回復のため。
朝廷…幕府に攘夷路線をとらせるため。
-攘夷浪士-
「公武合体は、幕府が朝廷を騙し、攘夷を妨害しようとしてる」と考えた。
→坂下門外の変に発展。(老中・安藤信正が暗殺未遂)
これは個人的な恨みではなく、政治批判のためのテロ。
同じ頃他にも政治的テロが相次いでいた。
個人的には公武合体が、上手く進めば良かったなぁと思います。
結構「朝廷VS幕府」の構図で考えがちだと思うんですが、全然そんなことないんですよね。
孝明天皇はいわゆる「佐幕派」だったので、幕府立て直しには協力的。
佐幕派…幕府の存続を支持する思想。(反倒幕)
尊攘派は「尊王」を掲げておきながら、朝廷の邪魔もしちゃうという…。
過激な尊王攘夷の人たちには、朝廷も困っています。
しかもテロのやり方が酷いんですよね…。
そう考えると、これから誕生する京都を守る「新撰組」は、私はヒーローのように感じますね!
皆さんはどう思いましたか?