この記事はこんな方におすすめ♪
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寺田屋事件ってどんな事件?
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何で薩摩 VS 薩摩なの?
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事件の後どうなった?
今回はこの3つを中心に、「寺田屋事件」について、分かりやすく解説!
寺田屋事件は「幕末の未来を変える1つの分岐点」になった改革へ繋がっていきます。
ぜひご覧ください♪
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寺田屋事件とは
文久2年4月23日に、寺田屋で起こった「薩摩藩士による、過激な薩摩尊攘志士の粛清事件」です。
寺田屋騒動ともいいます。
日にちを少し遡り、文久2年4月13日に、薩摩の島津久光が兵を率いて、京都に行きました。
【島津久光】出典:国立国会図書館デジタルコレクション
島津久光は島津斉彬の弟で、当時の薩摩藩主の父上です。
一橋派を復帰させるため、朝廷から使者を送り、幕府の政治改革を促すためでごわんど。
1つの藩が幕府に断りもなく朝廷と接触できるほど、この頃は幕府の力は弱まっていました。
ましてや久光は藩主でもありません。
さて京都では過激な尊王攘夷派が活発化しています。
久光の心は「公武合体」にあったので、これを知った薩摩の尊攘志士は“ある計画”のため、寺田屋へ集まります。
さつま鎮撫隊 VS さつま尊攘志士
島津久光の上洛の目的を知った志士たちが立てた計画とは、どのようなものでしょうか。
幕府側の京都所司代・酒井忠義と、関白・九条忠尚を襲い、一気に討幕へ傾けるのでごわんど!
そのあと勢いのままに「討幕の将」として、久光公を立ててしまえば良か。
作戦が成功したら、攘夷の命令を朝廷から賜っどー!
このとんでもない内容を知った久光は、側近を送り、尊攘志士らの説得を試みるも失敗。
そこで久光みずから説得しようと考えます。
ちなみに薩摩の尊攘志士を煽り、襲撃事件を起こそうと策動していたのは清河八郎でした。
もしわいどんに従わなかったら、薩摩のモン同士だが
上意討ちもしょんなかと覚悟しやんせ。
上意討ち…主君(この場合久光)の命令で敵を討つこと。
久光から派遣された鎮撫隊と、尊攘志士らが面談します。
鎮撫隊が「藩邸への同行」を説得し続けるも埒があきませんでした。
「同行拒否」と見なし、「上意」として、薩摩藩同士の討ち合いが始まったのでした。
これが寺田屋事件です。
さつま鎮撫隊 | さつま尊攘志士 |
大山 格之助 | 有馬 新七(討死) |
奈良原 喜八郎 | 橋口 壮介(討死) |
森岡 善助 | 橋口 伝蔵(討死) |
江夏 忠左衛門 | 柴山 愛次郎(討死) |
鈴木 勇右衛門 | 弟子丸 龍助(討死) |
鈴木 昌之助 | 西田 直吾郎(討死) |
山口 金之進 | 田中 謙助(切腹) |
上床 源助 | 山本 義徳(切腹) |
道島五郎兵衛(討死) | 森山新五左衛門(切腹) |
寺田屋事件では、薩摩の両者とも、死傷者が出ました。
奈良原が真っ裸になって、この討ち合いを中止させます。
その結果まだ残っていた薩摩尊攘志士の多くは降伏。
この事件で亡くなった尊攘志士は、明治維新のさきがけ的存在として「九烈士」と称されています。
その後…文久の改革
寺田屋事件の後、この件により島津久光は朝廷からの信頼を得ました。
これにて久光の目的である「幕政改革」のため、勅使とともに晴れて江戸へ向かいます。
勅使…天皇の意志を伝える使いの者。
幕府は薩摩を通し、朝廷から政治改革を要求されたことになります。
しかし幕府の力は弱まっていましたので、ほとんど受け入れるしかありませんでした。
島津久光によって行われたこの改革を「文久の改革」といいます。
文久の改革の主な内容
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会津藩主・松平容保を、新たに設けた「京都守護職」に任命。
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14代将軍・徳川家茂の「将軍後見職」を一橋慶喜に変更。
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松平春嶽(慶永)を「政事総裁職」に任命。
などありますが、この3つの職を「江戸幕府三要職」といいます。
また幕府が朝廷の命令を受け入れたことで、朝廷の発言力はさらに増すことになります。
まとめ
\今回のまとめ/
寺田屋事件とは
文久2年4月23日に、寺田屋で起こった「薩摩藩士による、過激な薩摩尊攘志士の粛清事件」
寺田屋騒動ともいう。
原 因
- 薩摩藩の権力者・島津久光率いる藩士は「公武合体派」
- 京都にいる薩摩尊攘志士は「尊王攘夷派」
幕政改革のため上洛した久光を前に、尊攘志士らは「京都所司代・酒井と関白・九条」襲撃計画を立てた。
これを耳にした久光は過激な薩摩尊攘志士を粛清することになった。
結 果
この薩摩尊攘志士らを鎮めたことで、朝廷から久光への信頼度がアップ。
勅使を率いて江戸へ行き、改革に成功した。
文久の改革により、一橋派が政治に復活することになった。
そして江戸から帰る途中で、生麦事件がおきました。
島津久光の一連の行動は、たくさんの歴史的事件に繋がりますね。
また「文久の改革」により、歴史がまた動き出そうとしている…という風に感じます。
改革が歴史の未来を変えるような、分岐点になったことは間違いないでしょう。