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「不平等条約」といわれている 日米修好通商条約 は、なぜ結ぶことになったの?
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条約を結んだ 井伊直弼 の独断だったの?
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朝廷と幕府の見解は違ったの?
日米修好通商条約というと、井伊直弼が勝手に結んだ不平等条約。
というイメージが強いのではないでしょうか。
「開国したくないけど、戦争も避けたい、鎖国は限界なのか…」
条約を結ぶまでには、幕府のこのような葛藤がありました。
世界情勢が変わり、日本に突きつけられた現実…
日本の平和を願う気持ちは一緒なのに、分裂してしまう幕府内…
このような状況のなか、一体どうやって条約締結に至ったのか、解説していきます!
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ハリスの来日
安政3年7月21日に、アメリカの外交官として「タウンゼント・ハリス」が下田にやって来ました。
ハリス来日の目的は、日米和親条約では叶わなかった、日本との貿易。
このときの老中首座 は 堀田正睦でした。
老中首座…幕府内の役職で、老中という最高職の筆頭のこと。
ハリスはアメリカとの貿易が、いかに必要なのかを熱く語った国書(手紙)を、堀田正睦に渡しました。
※幕府はハリスが江戸に来るのを嫌がったため、実際に国書を渡し条約の交渉をしたのは、安政4年10月〜安政5年1月にかけてです。
ハリスの熱弁
国書の内容になります。
清国はアヘン戦争で負けて、侵略されている。
日本に来る前に寄った香港で、イギリス総督に会ったが、アロー戦争が終わったら日本へ行くと言っていた。
イギリスやフランスは日本にも攻めてくるだろう。
そうなる前にアメリカと先に条約を結び、友好関係を築こう。
アメリカと条約を結んでから、他国と交渉した方が、日本が有利になる。
問題があればアメリカが仲介に入ろう。
さらに蒸気船などの発明により、交易が広がったので、世の中は豊かになった。
世界が変わったいま、このままでは日本は取り残されていくだろう。
イギリスやフランス、ロシアとは違って、アメリカは貿易以外の目的はない。
侵略など全く考えていないから、アメリカと条約を結んで貿易を始めよう!
だいたいこんな内容ですが、な…長いっ!
「ハリスの大演説」とよく言われますが、本当に熱量も長さもすごいですね。
しかも「アメリカのメリットは?」と考えると、ちょっと胡散臭い…。
これに対する幕府の考えはどうだったのでしょうか。
実際に清国も危うい状況である。
仮にアメリカと戦争にならずとも、イギリスやフランス、ロシアの脅威は変わらない…。
もはやアメリカとの条約を結び、開国せねばならぬ時がきたようだ。
悲報:幕府の失態
ハリスの熱弁を聞き、世界の状況や日本の未来を考えると、堀田正睦は開国するのは仕方がないと考えます。
しかし開国には徳川斉昭が当主の水戸藩を筆頭に、幕府内の「攘夷派」が猛反発。
阿部正弘が老中首座のときに、身分や立場を問わず意見を募集しました。
これにより親藩の水戸藩や尾張藩でも、政治に対して口出ししやすい環境になっていました。
そこで堀田正睦はうるさい「攘夷派」を黙らせようと考えます。
安政5年2月5日に京都に行きました。
長らく政治を任されてきた幕府に、朝廷も意見はしないだろうし、日米和親条約も許してくれたんだから、今回もすぐ勅許をもらえるはずだ。
ところがどっこい!
孝明天皇は勅許しませんでした。
このまま締結してしまえば、幕府の状況は悪化し、その結果、国が乱れてしまうだろう。
さらに今回の条約は、今後日本が不利益をこうむることになりそうだ。
勅許できる案件ではない。
幕府はいまいちど諸大名ともよく話し合うように。
孝明天皇はこのようにお考えになり、勅許しませんでした。
ちなみに誤解なきように補足させていただきますと、この時代の人は基本全員“尊王”です。
天皇が征夷大将軍に任命して幕府があるので、将軍も同じことです。
ただ水戸藩というのが、水戸学を樹立しており、尊皇攘夷の思想が人一倍強い藩になります。
また堀田の作戦の結果…
もはや幕府は天皇の許可なしでは何もできまい!
攘夷派を鎮めるどころか、真逆の結果となってしまい、幕府のダメージを考えると失態といえます。
ちなみに孝明天皇は、よく異国嫌いの攘夷派と言われます。
しかし実は上記のように幕府や国、民を思ってのご決断でした。
井伊直弼の奮闘とリアルな姿
国家の危機に、大老という臨時職が設置されました。
大老…老中首座をも上回り、将軍の次に権力がある最高職。
そんな大老に選ばれた男こそ、井伊直弼でした。
井伊直弼は堀田正睦から、日米修好通商条約の件を引き継ぐことに。
幕府内で開国か攘夷かで対立し、勅許もない現状。
そのため条約の締結は何度か期限を伸ばしにしています。
ハリスもだんだん威圧的に…。
幕府のなかでは「今までも政治は幕府に任されてきたし、勅許はいらないのでは?」という声も。
しかし井伊直弼は、天皇から許可がもらえるように努力します。
直接ハリスに対応していたのは、下田奉行所の 岩瀬忠震 と 井上清直 でした。
そんな中ハリスの威圧に対して、下田奉行所は「これ以上はムリ…」という空気になります。
もうどうしようもなかったら、調印しちゃってもいいですか?
井伊はあくまでも勅許を得てから調印したいところ。
切実に「ギリギリまで努力するように」という気持ちでした。
しかし下田奉行所は井伊の返事を「GOサイン」だと受け取ってしまい、条約に調印してしまいます。
(これには徳川斉昭らによる陰謀説もあり、井伊直弼がハメられた可能性もあります。)
こうして井伊の思わぬ形で、安政5年6月19日に、条約締結となりました。
徳川斉昭ら攘夷派は「違勅調印(天皇の許しを得ない調印)である!」と井伊直弼に対して憤慨します。
孝明天皇も大変お怒りになりました。
彦根藩の木俣家伝来の「公用方秘録」では、井伊直弼の意外な姿が伝わっています。
条約調印の話しを聞いた宇津木景福は、井伊直弼に指摘しました。
諸大名と話し合ってから、調印の返答をするべきだったのでは?
無念だ。
もはや大老は辞めよう…。
歴史上の偉人も人間だってことですね!
働いていたら、何気なくやっちゃったとか、ありますよね。
同じ時期に井伊直弼は、将軍継嗣問題も抱えていたので、いっぱいいっぱいだったのでしょうか。
井伊直弼は自分の発言に責任を感じ、違勅調印になったことに落ち込んでいました。
しかし大老を辞めると言う井伊直弼に対して、宇津木は励まします。
大老は辞さず、責任を持って続けるべきです!
ここで井伊直弼は覚悟を決めて、大老を続行することになりました。
まとめ
今回のまとめ!
-条約締結まで-
安政3年7月21日にハリスが、貿易交渉のため、アメリカから下田に来日。
幕府は開国したくはなかったが、アメリカや諸外国との戦争は避けたかった。
もはや開国しなければならいと判断。
幕府内で開国派と攘夷派で対立し、二分化してしまう。
老中首座・堀田正睦は尊王攘夷派を黙らせるべく、天皇に勅許を申請。
孝明天皇は幕府二分化による国の混乱、条約による日本の不利益を危惧し、勅許を拒否。
結果的に政治の中心だった譜代はダメージを受け、本来政治には関与できない親藩ら攘夷派の発言が、天皇のお考えと一致した。
-条約締結-
大老に就任した井伊直弼が、日米修好通商条約の件を引き継いだ。
井伊は勅許を目指すが、ハリスが威圧的に急かしてくるようになる。
下田奉行所の岩瀬忠震と井上清直がいいに尋ねる。
「どうしようもなかったら調印してもよいか」
「どうしようもなければ仕方ないが、できるだけ伸ばすように」
と井伊は回答。
下田奉行所はOKもらったと考え調印、安政5年6月19日に条約締結。
幕府内の攘夷派は憤慨、孝明天皇もお怒りに。
-井伊の反応-
彦根藩にて、宇津木景福から指摘される。
「調印については諸大名と話し合ってから返答した方がよかったのでは?」
井伊は「気づかなかった、無念」だと落ち込み、大老辞任を考える。
しか宇津木景福らの鼓舞により、大老に覚悟を持って望むことになった。
日米修好通商条約のウラには、こんな出来事があったんですね。
全員「国のため」という気持ちなのに、様々な考え方や立場が複雑に絡み合う、混乱の世の幕開けですね。
孝明天皇のお考えも、幕府の考えも納得できるだけに、自分が当時の人間だったら正解が分からないなぁと思いました。(笑)
あなたはどう思いましたか?