今回は新選組に縁のある、京都の「 角屋 」の魅力を綴っていきます。
角屋は現在「角屋もてなしの文化美術館」という名前で、誰でも見学可能です。
- 幕末が好き
- 新選組が好き
- 勤王志士が好き
- 歴史的建造物が好き
- 円山応挙 や 与謝蕪村 など日本美術に関心がある
上記のどれかに当てはまった方は、行く価値のあるところです!
ガイドさんが案内してくれますが、どんなところなのか少し知っておくと、より楽しめます。
私は新選組が好きで訪れました。
ちなみにですが古い建物は、見学者が入れるほどの維持をするのに、お金がかかると思います。
私たちが行くことで、歴史的な建物たちは未来に繋がっていけるはずです。
この記事を読んだら、あなたもきっと行きたくなりますよ!
新選組とのエピソード
壬生の屯所と角屋は、比較的近くにあります。
ゆえにたびたび角屋では、新選組の宴会が開かれていました。
角屋は刀の持ち込みは禁止で、玄関に刀掛けがあります。
しかし新選組の面々は、刀を預けずに部屋まで持っていっていました。
2階の部屋には新選組がつけた刀傷が今でも残っています。
坂本龍馬、西郷隆盛、久坂玄瑞などの勤王の志士たちも、会合のため角屋を利用していました。
ですが角屋の中での乱闘騒ぎはなかったようです。
また新選組の局長といえば近藤勇ですが、初期の頃の筆頭局長は 芹沢鴨 。
芹沢鴨さんは頼もしいところもありますが、短気で暴れん坊です。
角屋で宴会をしていたときのこと…。
店の対応に腹を立てた鴨さんは、鉄扇で食器を割ったり、帳場を酒浸しにしたりと暴れ回ります。
そう一方的に言い渡して帰っていったそうです。
この日も角屋で新選組の宴会がありました。
ただ新選組の歴史のなかでも忘れられない日となります。
“松の間”という広い1階奥座敷にて酒宴。
泥酔した芹沢鴨は、近しい仲間と芸妓たちと屯所に帰ります。
酔って寝静まったのち、同じく新選組の土方歳三、沖田総司らに暗殺されました。
新選組の内部は芹沢派と近藤派がおりましたが、かねてから乱暴狼藉が目立っていた芹沢鴨は、会津藩からの命令が下り暗殺の運びとなったそうです。
当時の角屋としては、新選組は本当に迷惑なお客さんだったことでしょう。
頭を悩ませた新選組が、未来では角屋に貢献しているなんて、想像もつかないですよね。
角屋とは
角屋は現在でいうところの料亭のようなお店で「揚屋」といいます。
揚屋には太夫や芸妓はいません。
と思いますよね。
揚屋に常在していないのは、太夫や芸妓の住まいである「置屋」から「揚屋」に派遣するという形だからです。
派遣された芸妓たちは、歌舞音曲で宴会を盛り上げます。
ここが吉原の遊女との大きな違いでもあります。
吉原は一般女性は立ち入れず、遊女も出ることが出来ませんでしたが、島原は女性の出入りが自由でした。
ちなみに島原の正式名称は「西新屋敷」といいます。
島原という花街にあった、揚屋のひとつが角屋ということでした。
いざ見学!写真アリ
外観からすでにワクワク!
ちなみに私は予定をぎゅうぎゅうに詰め込んでいたので、予約時間に間に合うようにタクシーで行きました(笑)
ただタクシーの運転手さんも道に迷っていたので、時間に余裕をもって行くことをおすすめします。
こちらは1階表座敷の“網代の間”です。
天井に注目!
ご覧のように特徴的な天井板ですが、網代組になっています。
そのため網代の間と言うようです。
網代の間から振り向くと、ステキなお庭が。
陽の光に照らされて青々とした草木の美しさと、癒しの縁側。
非日常感に惹き込まれます。
いやむしろ住みたい。
来店したらまず上の刀掛けに、刀を掛けます。
掛けられた刀は、下の写真の刀箪笥に保管されます。
新選組はここで預けずに、中に持っていっちゃったんですね〜。
新選組初期の筆頭局長、芹沢鴨が酒浸しにしたという帳場がこちら。
同じ場所に立ってその場面を想像すると、今となっては面白いですよね。
てんやわんやだったんでしょうね。
ここは確か松の間に向かう廊下だった気がします。
昼間でも薄暗く狭い廊下、私が歩いているように、人々が行き交っていたのかと想像すると感慨深くパシャリ。
たぶん奥は松の間だったと思うんですけど、どこに繋がる廊下なのか、正解は行ってからお確かめ下さいということで…(笑)
こちらが1階奥座敷、大座敷松の間!
実はこの松の間、大正14年に1度焼失しています。
しかし翌15年には再建され、元の状態に戻ることができました。
芹沢鴨が暗殺された日の宴会は、こちらの大座敷で開かれていたそうです。
松の間から眺めるお庭です。
ここでガイドさんのお話しがありました。
お座敷に座り、お庭を眺めながらの空間に、とても癒されました。
本当に心地の良いひとときだったことを、覚えています。
少しアップにします。
お庭にある立派な臥龍松が、一際目を惹きます。
当時この松は京の名所として、江戸でも認知されていたそうです。
ただこの臥龍松は、大正時代に枯れてしまったそうで、現在は幹だけが残っています。
青々とした枝ぶりは、2世の木々で当時を再現されているそうです。
これが見たかったんです!新選組の刀傷!
当時の玄関口の近くにあります。
刀傷がハッキリと分かりますね。
感激して何枚写真を撮ったか…(笑)
注意書きにもありますが、手を触れるとどんどん木が削られて刀痕が分からなくなってしまうので、絶対触らないように気をつけましょうね。
角屋のお台所になります。
ここでたくさんのお料理を作っていたんですね。
広い台所に、当時の賑わいが目に浮かびます。
こちらは写真の通り、西郷隆盛が角屋に来た際に使ったとされる桶です。
昭和初期の京都では、空襲による建物の火の燃え移りを防ぐため、建物の取り壊し対象となる区画がありました。
角屋もその対象だったそうです。
しかし明治維新に功のあった“西郷隆盛の桶”があったということで、取り壊し危機を免れたみたいです。
食料を保存するための冷蔵所です。
料亭といえども、当時まだ冷蔵庫なんてないですもんね!
このようにできるだけ涼しい場所に保管していたんですね。
角屋2階について
※写真の箱階段はのぼれません。
2階は撮影禁止になっていますが、見どころが多いんです!
例えば扇の間には、天井にたくさんの扇が貼りまぜてあります。
このように2階にも“◯◯の間”がいくつもあるんです。
1番印象深く残っているのが「青貝の間」
青貝の間は壁や棚などに青貝がちりばめられており、螺鈿細工のとても美しいお座敷になります。
「綺麗〜ずっと見ていたい…」と思っていたら、なんと!
このお座敷にも新選組がつけた刀傷がありました!
さぞかし楽しく飲んでいたんでしょうね(笑)
ちなみに螺鈿がピンと来ない方もいるかと思いますので、参考程度に。
写真は角屋のものではなく、全く別の螺鈿です。
他には見る角度によって、立体的に見えたりする障子がある座敷もありました。
日本の職人さんの技術の凄さを体感。
また草花の間に山田峨山「四季草花の図」
御簾の間に山田峨山「総翠簾の図」
馬の間に円山応挙「少年行の図」などがあります。
また壁や天井のススは、燭台や行灯 の 油煙によるもの。
各座敷は今ではススが落とされています。
しかし青貝の間のみ、時代の面影をそのまま感じることができます。
これは螺鈿の修復が難しいため、青貝の間だけススが残っているとのことでした。
基本情報と注意
令和5年現在は、感染対策のため人数制限があるため、予約制になります。
2階の見学は1階見学とは別途料金が発生します。
2階見学も希望の方は、予約時にその旨を伝えた方がいいですね。
あと個人的な注意ポイントとしては、ガイドさんの話しに集中しすぎると、写真が撮れないということ。
撮影タイムがあるわけではないので、ガイドさんがお話ししている間に、撮りたいところは撮った方がいいと思います。(特に前半)
台所や玄関の方まで来ると自由にゆっくり撮影できました。
基本情報
角屋もてなしの美術館
開館期間:3月中旬〜7月中旬、9月中旬〜12月中旬
営業時間:10時〜16時
休館日:月曜(祝日の場合翌日)、開館期間以外の月
〒600-8828
京都市下京区西新屋敷場屋町32
公式HP:公益財団法人 角屋保存会