世界でも類を見ないほど、長きに渡り平和が守られていた江戸時代。
関ヶ原の戦いにて勝利を治め、江戸幕府を開いたのが徳川家康でしたね。
戦国時代という乱世が終わりを告げたとはいえ、急に時代が変わるわけではありません。
敵だった者もいれば、味方である者もいます。
敵味方関係なく全ての者を同じように統一すれば、隙をつかれたり、不満から謀反が起きかねません。
あなたなら、どうやってそんな世の中をまとめますか?
260年間の平和を叶えた、徳川幕府の政策とはどのようなものだったのでしょうか。
今回は徳川の政治体制とその目的について見ていきましょう!
幕藩体制
幕府は政治を行うにあたり、まず「幕藩体制」を整えました。
幕府を頂点として、各地の有力な大名に、その土地を統制させる支配体制です。
各藩は幕府の命令には従いながら、任せられた土地とその領民を治めていきます。
そのために幕府は大名をまとめるための政策も考えていくのです。
大名の振り分け
政治をスムーズに行なっていくには、幕府内の政治体制も重要になっていきますよね。
幕府は大名を三つに振り分けて、役割をハッキリさせました。
親藩(しんぱん)
徳川家の血縁大名。
あくまで家族、親戚なので政治には参加する権利はありませんでした。
家康の子が当主となっていた藩、尾張・紀州(紀伊)・水戸は、徳川御三家と呼ばれています。
徳川御三家は親藩の中でも特に重んじられ、徳川姓を名乗ることも許されていました。
譜代大名(ふだいだいみょう)
関ヶ原の戦い以前からの、もともとの徳川家臣たちの中から選んだ大名。
一番信頼がおけるため、重要な場所を任せられていました。
また政治に参加ができる大名です。
外様大名(とざまだいみょう)
親藩、譜代大名ではない、それ以外の大名。
幕府を開いてから、従うことになった大名たちで、幕府から離れた土地を統制。
信頼関係がないため、政治には参加させてもらえませんでした。
つまり三つあるうち、政治に参加ができるのは譜代大名のみでした!
徳川幕府の主な政策
諸大名にとって、厳しい政策ではありましたが、これらの政策により、結果的には260年平和が保たれることになりました。
あまりに有名な政策の数々ですが、その目的とは何だったのでしょうか。
武家諸法度(ぶけしょはっと)
大名を統制するための法令のため、大名の力を弱める項目がたくさんあります。
ですがこれによって、幕府と諸藩の大名との主従関係が出来上がり、幕府に歯向かえないようになりました。
また武家諸法度は将軍が代わると、書き加えられたりしたので、その度に発布されました。
参勤交代(さんきんこうたい)
武家諸法度のなかでも最も有名なのが、参勤交代ですよね。
大名は一年ごとに江戸と、領地を行ったり来たりしなければなりませんでした。(←飛行機とかないし、遠ければ遠いほど大変…)
また正妻と跡継ぎになる子だけは、江戸に住むように決められていました。
逆らった場合のための、事実上の人質ですね。
一番苦しかったと思われるのが、参勤交代の「旅費や人件費」が藩の負担だということ。(←当時の人は幕府ケチだなーって思わなかったのかな)
そのため諸藩の財政が圧迫し、結果的に藩の軍事力低下・弱体化に繋がりました。
その他の法令
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新しい城づくり禁止
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勝手に関所や港をつくるの禁止
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大きい船つくるの禁止
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謀反を計画する仲間づくり禁止
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キリスト教禁止
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幕府の決めた通りに従うこと
などなどほとんどが幕府に抵抗できないよう、藩の弱体化狙いがてんこ盛りの武家諸法度。
この法令があったため、特に大きな争いは起こらなかったと思われます。
禁中並公家諸法度
禁中並公家諸法度とは、朝廷を取り締まるため、幕府が定めた法律です。
- 禁中…皇室
- 公家…貴族
「朝廷は学問と文化の継承に尽力するべきである」といった内容になります。
つまりそれ以外はしなくていいということで、「政治は幕府がやるから!」と意味を込めたルール。
幕府が作った規則に、朝廷が大人しく従ったのって不思議ですよね。
これは朝廷で「猪熊事件」というスキャンダルがあったためです。
スキャンダルと綺麗な言い方をしましたが、天皇が寵愛していた女性を含む、公家たちの乱行事件でした。
この事件がきっかけで、朝廷の権威と尊敬の対象であるイメージを守るために、公家の統制が必要であると考えます。
こうして時の権力者、徳川家康が公家の諸法度の制定をするに至りました。
当時の幕府と朝廷は、Win-Winだったようですね。
鎖国(さこく)
江戸幕府は鎖国体制をとっていました。
鎖国の大きな目的は、キリスト教の流入を防ぐことです。
当時ヨーロッパ諸国は、キリスト教の布教活動をしながら、領土を拡大させていきました。
スペインとポルトガルはローマ教皇から、キリスト教を広めるなら他国に進出し、自国の領地としても良いと、許されていたのです。
幕府としては日本が植民地となる危険があると考え、それらの国との貿易をやめました。
キリスト教を通して、人々が団結し、再び一揆が起こることも避けたかったのです。(島原の乱の前例あり)
また「貿易の港」と「取引をする国」を決めることで、貿易は徹底的に幕府の管理下になりました。
つまり諸藩は外国との取引が出来ないため、武器の輸入などが出来ず、力をつけることができませんでした。
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貿易の港…長崎・対馬・薩摩・松前
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貿易国…オランダ・清(中国)・朝鮮・蝦夷・琉球
オランダはなぜOKだったのでしょう?
それはオランダがプロテスタントの国だったからです。
スペイン、ポルトガルはカトリック。
当時はカトリックVSプロテスタントというように、対立した勢力だったのです。
そのためオランダは日本での布教活動はしないと、約束した上で貿易していました。
幕府のこの政策は、「鎖国」より「貿易統制」の方が正しい表現になりそうですね。
まとめ
260年の平和が続いたのは、幕府と諸藩のこのような努力があってこそでしたね。
幕藩体制
幕府を頂点として、各地の有力な大名に、その土地を統制させる支配体制
大名の振り分け
親藩…徳川家の血縁関係者。政治は参加できず。
譜代大名…関ヶ原以前からの徳川家臣。政治に参加できる。
外様大名…幕府を開いてからの主従関係。政治は参加できず。
武家諸法度
大名を統制するための法令で、参勤交代など諸藩の弱体化を狙った項目が多い。
そのため幕府に抵抗する力をつけるのを防いだ。
貿易統制(鎖国)
キリスト教の流入、植民地化を防ぐため、貿易国を選んだ。
幕府のみが貿易を管理しているため、諸藩の武器の輸入などを防ぎ、軍事力をつけさせなかった。
当時の大名はきっとたくさん大変な思いをされたことでしょう。
ですが幕府の政策の数々によって、諸藩が力をつけることができず、幕府に歯向かえないため大きな争いは起こりませんでした。
また鎖国は日本が遅れる原因になったともいわれていますが、外国からの植民地の危機を防いだことになります。
これらのおかげで領民は平和な時代を過ごすことができたのですね。
今私たちが生きている日本も、江戸時代よりもっともっと、平和が続く時代になると良いですね♪