日本の歴史が大きく変わっていくことになった、黒船来航。
当時の日本人は衝撃的だったことでしょうね。
今回は下記のような黒船来航に関する疑問と、幕府の対応についてお話していきます♪
「ペリーは何をしに日本に来たの?」
「日本は黒船が来るのを知ってたの?」
「幕府の対応は?」
「国書の内容ってどんなもの?」
さぁこの国難、幕府はどう乗り越える?
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黒船来航
嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、日本に衝撃が走ります。
アメリカ東インド艦隊司令官長マシュー・ペリーが、4隻の軍艦を引き連れて、浦賀沖にやって来たのです。
浦賀は三浦半島南部、現在の神奈川県横須賀市で、江戸湾の入り口にあたります。
祝砲とも威嚇とも言われていますが、艦隊は数十発ほど空砲を撃ちました。
これに江戸庶民たちは「花火みた〜い!」とお祭り騒ぎになっていたそうですが…。(←おおらかすぎる!笑)
このときペリーは、アメリカのフィルモア大統領から預かった「国書(手紙)」を幕府に渡しにやってきました。
ちなみに漂流民だった「サム・パッチ」と呼ばれた、「仙太郎」という日本人水平も黒船に、同乗していたらしい。
ペリーの目的
実はペリー、日本に来る数年前から、すでに計画を練っていました。
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日本の貿易港・長崎は、オランダが交渉の邪魔をしてくるかもしれないから避けること。
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日本人がまだ見たことのない蒸気船で行き、軍事力を見せつけること。
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清(中国)と同様に、日本へも威圧的に対応すること。
結果的にこの計画通りに事が進みました。
ちなみに日本来航では、フィルモア大統領に、日本を攻撃しないように司令されていました。
ではペリーが日本に来た目的は何だったのでしょうか?
日本とも貿易はしたいがね。
つまり寄港地として、日本が必要だったということですね。
当時アメリカは清(中国)との貿易や、日本近海で捕鯨漁を行っていました。
大西洋からのルートは時間がかかるため、ライバル国と比べると不利。
そのためアメリカ的には太平洋ルートが好都合でした。
中継地点としてピッタリだったのが、日本だったのですね!
確かに遠い…。
幕府は来航を知っていた?
幕府は黒船が来航する1年も前から、実は来航の情報を入手していました。
それにも関わらず、行った対策は三浦半島近くの藩の人員を、少し増やした程度だったのはなぜでしょう?
黒船来航の情報は、オランダから入手したものでした。
実は過去にも「イギリスが日本にも行くってよ!やばいよ!」と、オランダから情報をもらっています。
その時の幕府は対策をし、準備をするも、イギリスは来ませんでした。
「なんだデマかよ!」となった過去があったのです。
またペリーよりも前に、アメリカのビッドルという人物が、日本の浦賀に来ていたことにあります。
このときはなんとかアメリカに帰ってくれました。
過去にはロシアが通商を求め、日本に来たこともあります。
このときも一度引き上げたロシアが戻ってくることはありませんでした。
外国に振り回されながら、幕府はなんとか鎖国体制を継続していたんですね。
なので過去の前例たちから、今回の黒船来航も、幕府はそれらと同一視していた部分があるのではないでしょうか。
「いつもみたいに断ったら、きっと帰ってくれるよね…?」という感じで。笑
しかしペリーは日本を調べてあげてから来ていますので、準備万端…。
幕府の対応と国書の内容
嘉永6年6月3日にペリーが、フィルモア大統領の国書を持って、浦賀に来ましたね。
当時は貿易港が決まっていたため、貿易港ではない浦賀で国書を受け取るのを、幕府は渋っていました。
また黒船への対応は浦賀奉行所が行っており、与力(役職名)がペリーの元へ行きます。
高官を連れてこないなら、ワタシが直接将軍に渡しにいきますけど!
ペリーはそう言って威圧し、江戸湾内にまで入り、測量を始めるなど高圧的な態度を示しました。
一行(いっこう)を久里浜へ上陸させましょう。
徳川幕府、老中首座の阿部正弘(あべまさひろ)が指示。
老中首座とは幕府内の役職で、老中という最高職の筆頭のこと。
こうして6月9日、ペリー来航から6日目に国書を受け取りました。
国書の内容
主に日本に対しての要求が書かれていました。
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世界の情勢は変化しています、ぜひ開国してアメリカと貿易しましょう。
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日本近海で捕鯨漁をしているので、船が難破したときは、アメリカ人を助けてほしい。
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対価は払うので捕鯨船の石炭、食料、水など必要なものを日本で補充したい。
長らく鎖国体制をとってきた日本は、すぐ決断できるようなことではありませんでした。
またこのときの12代将軍、徳川家慶の体調が思わしくなかったのです。
実際ペリー来航と同月の、6月22日に逝去されています。
阿部正弘はどうしたかというと…
本来の貿易港ではない場所で、国書は受け取りました。
なので1年だけ考える時間をいただきたい。
いったん帰りますが、また返事を聞きに来ますので。
こうして幕府はとりあえず1年の猶予をもらうことに成功し、黒船一行は日本を離れていきました。
まとめ
嘉永6年6月3日に、浦賀沖にペリー率いる黒船来航。
目的と交渉
太平洋横断ルートで清と貿易するための中継地点にしたかった。
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日本と貿易したい。
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アメリカの捕鯨船の燃料補給、食料や水などの補充を日本でしたい。
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アメリカの船が日本で難破したら、日本はアメリカ人を保護してほしい。
→老中首座、阿部正弘は1年考える時間をもらい、1度ペリーには帰ってもらいました。
さてさて、とりあえず帰ってもらったものの、この国難は変わりません。
阿部正弘はこの後、改革を行って乗り越えようとします。
それはまた次回、解説したいと思います。
いやぁ〜それにしても江戸の皆さん、花火みたいに空砲を喜んでお祭り騒ぎって、すごいですよね。笑
好奇心が旺盛で、心にゆとりがあったのかなと想像すると、江戸の暮らしは良いものだったのでしょうね。