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上杉謙信の女性説の出どころは?
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なぜ「女だったのではないか」と言われているの?
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結局男か女、どっちの説が濃厚なの?
今回は上記のような疑問がある、そんなあなたにぜひ見ていただきたい!
謙信公のファンであれば、一度は考えるであろうこの問題。
どちらであっても、謙信公が好きなことに変わりはありませんが、漠然としていると気になりませんか?(笑)
今回は女性説と通説を徹底比較してみましょう!
※歴史には諸説ありますので、その中の一つとしてご覧ください。
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謙信女性説はどこから広がった?
はじめに上杉謙信女性説を唱えたのは、実は歴史研究家でも考古学者でもないんです!
八切止夫(やぎりとめお)という小説家から、この女性説は広がりました。
謙信女性説以外にも、八切さんは「徳川家康は二人」「信長を殺したのは光秀ではない」などの異説を唱えた人物。
八切さんが考えた「謙信女性説の根拠」を中心に確認していきましょう!
謙信公の死因は「大虫?」
一般的に広く知られているこの根拠。
上杉謙信の死因は脳溢血ではなく、大虫だというもの。
実はこれも八切さんが言ったものです。
「大虫」が女性に繋がるのはなぜ?
八切さんは「大虫」=「月経」だと解釈していたようです。
月経そのもので亡くなることはないように思いますが、これが「婦人病」として広まっていきました。
「大虫」はどこに書いてあった?
これは松平忠明が記した「当代記」にあります。
実際に見てみたところ、当代記巻二にて「此春越後景虎卒去 年四十九 大虫云々」と書いてありました。
ちなみに当代記は一次ではなく、二次史料になります。
「大虫」は本当に婦人病?
日本古語大辞典と旺文社古語辞典で確認してみました!
しかし「おおむし」または「おほむし」という言葉自体が載っていませんでした。
精選版 日本国語大辞典では「大虫=大蛇」、白水社 中国語辞典では「大虫=老虎」でした。
特に婦人科系の文言は見られません。
ちなみに老虎は、中国語では前後につける言葉で意味が全く異なるようです。
「年老いた虎」という意味ではないのですが、松平さんがそのままの意味で解釈したとしたら、少し納得ですよね。
虎といえば謙信公の歴代の名前「景虎・政虎・輝虎」ですから、老衰と捉えることができそうです。
八切さんは「おむし(味噌)」という言葉が月経の隠語だとして、「大虫」に当てはめたそうです。
ゴンザレスの報告書
日本に調査に来ていたスペインのゴンザレスという人が、フェリペ二世に宛てた報告書の内容に根拠があるというもの。
その報告書に「アイド(会津)のウエスゲ(上杉)は“叔母”が開発した佐渡の純金をいっぱい持っている」と書いてあったと八切は主張していました。
「叔母」=謙信公のことだと解釈したそうです。
本当に叔母と書いてあった?
スペイン語を調べてみました。
・叔母:Tia(ティア)
・叔父:Tio(ティオ)
一文字違いで、とても似ていますね!
考えられるのは…
- ゴンザレスが書き間違え、もしくは勘違いした可能性。
謙信公と面識のないゴンザレスがただ間違えただけかもしれません。
「会津の」ということは、上杉家が越後から会津に移封後の話になるので、謙信公はすでに逝去されていますから面識なしですよね。
- 「aとo」が似てるので(特に筆記体)八切さんが読み間違えた可能性。
恐らく「女性説の根拠探し」だと少なからず先入観を持って見ると思うので、十分ありえると思われます。
- 「景勝=謙信公の息子」「仙洞院=叔母」と解釈してしまった可能性。
景勝は謙信公の養子でしたが、言葉の問題で「養子」がうまく伝わらなかった…
ということも“絶対ない”とは言い切れないのではないでしょうか。
金山は未発見
「佐渡の純金」とありますが、金山は戦国時代は未発見です。
また謙信公と金山に関わる史料はないそうです。
当時は「銀山」の採掘がされていました。
この報告書が本当にあるのだとしたら、ゴンザレスは大事なところすら間違えてますよね。
現在この報告書はどこに?
八切によると、ゴンザレスの調査報告書は「トレドの修道院」にあるそうです。
ちなみに今のところ、この報告書の存在自体、確認されていません。
日本人では「八切さんしか見たことがない」ということになります。
筆跡が女性っぽい?
私は古文書や筆跡の専門家ではないので、「女性っぽさ」というのは正直よく分かりません。
謙信公は確かにスラリと綺麗な文字ですね。
「男らしい」「女らしい」といった価値観で見てみると、織田信長と比べたら謙信公の字は「女らしい」になるのかなと思います。
ですが筆跡なんて今も昔も人それぞれ。
謙信公の養子、上杉三郎景虎も綺麗な文字に見えます。
なので筆跡だけで女性と考えるのは難しいので、なぜこんな話しになったのか考えてみました。
仮名文字の書状
謙信公が書いたといわれる書状の中で、ひらがなのみで書かれた書状があります。
この書状から女性っぽいという話になったのではないかと思いました。
昔は「ひらがな」は「女文字」といわれ、主に女性が使っていました。
男性が「ひらがな」を多く使うのはプライベートな場面になります。
この事が筆跡の話しになっていったのではないでしょうか。
また女性に宛てた手紙なら、女性が読めるように「ひらがな」を使いそうですね。
謙信公は漢字の書状だってもちろん存在します。
これだけで男か女かの判断は出来かねますね…。
こんな役職もあった
謙信公は直筆が多かったといわれていますが、戦国期にはこんな役職もありました。
祐筆(ゆうひつ)という、代筆を担う役人です。
特に大名などのエライ人は、自分で書くことは少なかったと思われます。
この場合は書状の最後の、花押(かおう)と呼ばれるサインのみ直筆です。
これでは筆跡なんて素人には、ますますよく分かりませんね(笑)
謙信公の衣類が女性的?
遺されている謙信公の衣類が真っ赤で、パッチワークがあったりで、女性的であるというウワサ。
果たしてこれは本当に女性的なのでしょうか?
現代と昔では、感覚も流行も異なりますよね。
昔は原色が好まれていましたので、戦国武将たちはとてもオシャレ!
それは肖像画などを見ても、たまにそう思うことはありませんか?
なので謙信公の衣服が原色だからといっても、特別なことではないのです。
謙信公の衣類
謙信公の衣類で赤といえば、紅地雪持柳桐文平絹胴服(べにじゆきもちやなぎとうもんへいけんどうふく)や赤地牡丹唐草文天鵞絨洋套(あかじぼたんからくさもんびろーどまんと)でしょうか。
確かに鮮やかで美しいです。
紅地雪持柳桐文平絹胴服は謙信公の後、甥の景勝も着用しております。
なので女性ものという訳ではなさそうですね。
他の戦国武将は?
戦国武将はオシャレというお話しをしましたが、他の武将はどうだったのでしょうか。
“伊達男”の語源になった伊達政宗。
濃い紫色に、カラフルな水玉模様の陣羽織があります。
現代のデザインでもありそうなポップな感じで可愛いです!(笑)
ずっと政宗所用と伝わっていますが、近年では政宗以降との見方もありますが。
他には派手好きの豊臣秀吉は、異国風のペルシャ絨毯のような柄がハデな陣羽織。
徳川家には、三ツ葵紋付二葉葵文の、現代の感覚で言うと可愛らしい辻ヶ花羽織があります。
また徳川家康が吉岡隼人(男性)に下賜した胴服には、紫・浅葱色・白の斜めストライプに、雪とイチョウ模様のものがあります。
どの武将も個性があってステキですよ!
「原色=女性とは限らない」ということでした。
謙信公のごぜ唄
瞽女唄(ごぜうた)とは、目が見えない女性が、三味線を伴奏に唄う音楽で「ごぜ節」ともいいます。
謙信公にまつわる唄の一節に
「寅年寅月寅の日に生まれた政虎さまは、城山さまの御為(おんため)に、赤槍たてて御出陣、男も及ばぬ大力無双」
というものがあったと八切さんは言っています。
政虎が謙信公のことで、「男も及ばぬ」と言っていることから、女性であるとしたものです。
この一節が載っていたという本「越後瞽女屋敷・世襲山本ごい名」は、八切さんが点字本を見たらしいですが、現在その存在は確認されていません。
恋愛物語がお好き?
女性説では、謙信公は源氏物語や伊勢物語などの恋愛物語を好んでいたとおわれています。
そのため織田信長から源氏物語の屏風(びょうぶ)が贈られました。
また連歌会(れんがえ)では恋愛の和歌も詠んでいたため、女っぽいといわれています。
さらに屏風は女性に贈るものだというお話もありますね。
当時と今の感覚の違い
現在では源氏物語や伊勢物語と聞くと、恋愛ストーリーだから、昔の少女マンガのようなものだろうと考えてしまいますよね。
しかし戦国時代は違います。
源氏物語も伊勢物語も、教養の一つであり、連歌会で恥をかかないための必須知識です。
「恋」や「季節」がテーマになることがあったのです。
徳川家康など他の武将たちも、「源氏物語」をもちろん読んでいますよ。
ちなみに連歌会は和歌を連ねて詠む会で、コミュニケーション能力も培(つちか)われ、文武両道という概念のもとでは重要なもの。
下手な和歌を詠むと赤っ恥、メンツも潰れてしまいます。
連歌を指導する役の人までいたくらいです。
なぜ謙信公だけがこのように言われているのか疑問なほど、戦国大名の大切な一般教養です。
信長贈呈の屏風について
屏風は戦国大名の中で、贈答品として普通であり、特別女性にだけ贈るものではないんですね。
信長は宣教師にも屏風を贈っていますよ。
また源氏物語の屏風は縁起物でおめでたい品であり、風流を重んじる謙信公へ、信長なりの敬意を表したものだと思います。
ちなみに信長は源氏物語の屏風と一緒に、「洛中洛外図屏風」も謙信公に贈っています。
肖像画が女性らしい?
謙信公の肖像画で一番有名な、無精髭を生やしている絵がありますよね。
その肖像画について「とってつけたような髭だ」とよくいわれています。
また林泉寺所蔵の肖像画においては「丸みを帯びていて女性のようだ」といわれていますね。
日本画は西洋のようなリアルを追求した絵ではないので、実際なんとでも言えますよね。
また謙信公は生前、自分の後ろ姿として「盃」を描かせたというお話もあります。
「盃」は女陰の俗語でもあるため、女であることをアピールしていたといわれているんです。
大のお酒好きでもありますので、どのような意図で描かせたのかは、想像するしかありません。
無精髭の有名な肖像画
この肖像画が描かれたのは江戸時代。
江戸時代には謙信公はすでに他界されていますね。
あえて無精髭を描いたのは「男だった」とアピールしたかったからだといわれています。
江戸時代になってから女当主が禁止されたため、謙信公が女だった証拠を隠滅したうえで、男だったと主張しているというもの。
この説の不思議な点は戦国から江戸という近い時代で、家康と謙信公は同じ時代に生きていたのに、今さら「実は謙信は男なんです」って可能なのでしょうか。
他家の記録まで処分できるわけはないので、上杉家内だけで証拠を隠滅するのは難しいと分かると思いますが…。
そして実際に女当主として有名な「井伊直虎」井伊家、「立花誾千代」立花家はこれが理由で取り潰されてはいませんので、本当に隠蔽する必要があったのか疑問です。
女性だったから隠したという決定的な根拠にはなりませんね。
清瀧山 常安寺
常安寺所蔵の謙信公の肖像画は、謙信公だけでなく、二名の家臣も一緒に描かれています。
その家臣は鬼小島弥太郎と直江兼続だといわれています。
こちらは僧衣姿の謙信公です。
描かれた年代は慶長以前ということで、ハッキリとした時代は不明です。
ちなみに謙信公が亡くなったのが天正ですが、その次の年号が文禄、慶長と続きます。
こちらも性別はどちらとも言えませんね。
こちらの肖像画は公式サイトに載っていますよ。
曹洞宗 春日山 林泉寺
公式サイトには肖像画の写真は載っていませんが、無精髭の次に有名な肖像画ですよね。
林泉寺に所蔵されている肖像画は、現在のところ謙信公の生前に描かれた、唯一のものだといわれています。
とても貴重ですね!
ネット検索すると画像は出てきますので、記事を読み終えたらぜひ検索してみてください。
またこちらの肖像画が「丸みを帯びていて女性のようだ」という人もいます。
私は正直、これでは男女の区別がつきませんが、あたなはどう思いますか?
ちなみに「丸さ」でいえば、私は浅井長政が思い浮かぶのですが…。(←長政ファンの方すみません!)
毎月腹痛
謙信公は毎月10日前後に腹痛を起こし、部屋にこもっていたといいます。
また「松平記」によると北条が侵攻してきた際に、謙信公は腹痛のため城に残り、出陣しなかったといわれています。
この腹痛を月経痛と捉えているようですね。
本当に毎月?
謙信公の初陣は15歳、享年は49歳なので、34年間で約70回もの戦をしています。
その中では10日前後をまたぐこともありますし、関東へ行くため極寒の峠越えもしています。
これはなかなか月経中の女性の身なら辛いものがあると思います。(いや健康な男性でも辛い!)
上杉跡目争いの御館の乱では、景虎を救援しに行こうとした北条が、雪のために進軍を諦めたくらいです。
またこの記述があるのは何の史料なのか、どこにも書いておらず、どの程度の頻度だったのかなど信憑性は不明です。
ちなみに戦国時代では、月経中の女性は「血」を連想させることから縁起が悪いとされていました。
それゆえ戦いに行く前の武士たちは月経中の女性を忌み嫌い遠ざけていました。
松平記では?
徳川家の書物「松平記」を読んでみたんですが、謙信公が腹痛で城にこもったというのは探せなかったです。
見逃したかもしれないので、読み直したのですが腹痛の件はなく、謙信公に関すること自体が少なかったですね。
書いてあったのはこの2つ。
1つは「景虎(謙信公)が松山から河越へ出兵するときに、小倉内蔵助が活躍して、氏康から感状をもらった」というようなことが書かれていました。(解釈のずれがあったらすみません)
もう1つは「北国の輝虎(謙信公)と氏真は昵懇(じっこん)の筋目があり、氏真を濱松に、屋形を立て御館と名付け…」と書いてありました。
また松平記は天正5年までの記録だったので、謙信公の死については残念ながらありませんでした。
私が読んだ限り腹痛に関する記述が見当たらなかったので、もし見つけた方がいらっしゃれば教えてください。
「松平記」は国立図書館デジタルコレクションから誰でも閲覧することができますよ。
死因
現在では死因は「脳溢血」が一番濃厚な説になっています。
ですが甥の景勝が天正6年3月24日に、小島職鎮に宛てた手紙には「3月13日に謙信が不慮の虫気で亡くなった」と書いてあります。
虫気とは、腹痛を伴う病気のことを指しています。
寄生虫によるものか、長年の大量飲酒による胃がんなのか、胃がんや肝硬変からなる腹膜炎か…。
考えられる例はたくさんありますね。
しかし一般的に謙信公が倒れたといわれている場所がトイレ。
「トイレ×腹痛=婦人病」と、考える方もいるようです。
甲陽軍鑑の品第五十四に、「謙信公は“閑所(かんじょ)”にて煩い出して、五日間煩った」と書いてあります。
閑所とは人がいなくて静かな場所、またはトイレを意味しますので、書斎や私室なども含まれる訳ですね。
トイレの意味だけで広まったのは、江戸時代の軍学者が「廁(トイレ)」と解釈したのが始まりだそうです。
倒れた場所は私室かトイレで、腹痛の病気によって亡くなった可能性があるということ。
度々の腹痛があったとしたら、病気の前兆だったのかもしれませんね。
生涯不犯
謙信公は生涯妻を持たず、独身だったことは有名ですよね。
最近ではとあるテレビ番組で、歴史学者の黒田基樹先生が「上杉謙信に奥さんがいたことが確認された」と発言されていました。
この発言以降の情報はなく、真相は不明です。
現在のところ謙信公は「生涯不犯(しょうがいふぼん)」であるといわれています。
生涯不犯とは仏教の戒律の一つで、一生異性と性交渉をしないという事なんですね。
「お家の跡継ぎ」が重要視された時代で、生涯不犯を誓った謙信公。
ですが奥さんがいなかったことで女性説がここでも浮上しました。
結婚しなかったワケ
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宗教の戒律による説
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兄の息子に家督を譲りたかった説
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男が好きだった説
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女性だったから説
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性的不能だった説
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両想いだった女性との死別説
などがあります。
例えば男が好きだったとしても、戦国時代の衆道関係(男色)は普通なので、これだけで謙信公は女だと決められるものではありません。
やはり宗教による戒律が濃厚だと思われますね。
高野山
【高野山】出典:国立国会図書館デジタルコレクション
みなさん知っていましたか?
謙信公はただの熱心な信者ではなく、真言宗の立派な僧侶。
女人禁制の高野山(こうやさん)にも登っています。
現在の高野山は女性も行く事ができますが、女人禁制が解かれたのは明治になってからのことです。
謙信公が30歳の時に、無量光院3代目住職の清胤(せいいん)と師弟関係を結びます。
無量光院は高野山の宿坊の一つです。
女性だとして信心深い謙信公が己の欲のために、女人禁制の山に登るという、神仏に背くような行為をするでしょうか。
阿闍梨権大僧都
天正2年12月、謙信公45歳のときに髪を剃り、天正3年には四度加行(しどけぎょう)、伝法灌頂(でんぽうかんじょう)を約100日で行いました。
四度加行…伝法灌頂の前に行う修行で、真言密教を伝授する最高の儀式。
伝法灌頂…師匠の位を取得するための、秘法の修法による儀式。
謙信公はこれを得て「阿闍梨権大僧都(あじゃりごんのだいそうづ)」の位階を授かり、真言宗の正式な僧侶になります。
このように改めて聞くと、私たちが想像する「信仰心」の何倍も上をいきますね。
謙信公の「人生の道しるべ」のように感じます。
ちなみに高野山は女人堂という、山に立ち入れない女性のための祈りの場所を設けていました。
ここで祈れども、位の高い師範となれる「阿闍梨権大僧都」を得るのは、当時の時代だと女性では難しいのではないでしょうか。
また戒名に関しても「尼」や「大姉」など、女性を指す漢字は見受けられません。
ちなみにちなみに謙信公の戒名は、そのお寺にある位牌ごとに微妙に違うようでした。
広く知られているのは「不識院殿真光謙信」ですね。
また「不識院殿真光謙信大居士」という戒名に関しても見受けられました。
「居士」というのは、男性にのみ使われる位号です。
まとめ
現在女性だと言われている根拠と、その背景にまつわるお話しをさせていただきました。
私は今の時点では、男性説(通説)が優位だと思います。
八切止夫さんの提唱した根拠は、どれも不確かなものばかりです。
しかしこれから発見されるか、何か別の女性だった証拠があった際には、八切さんはとてもすごい人ですよね。
あなたはどちらだと思いましたか?